50

 その後、私は殆ど放っておかれた。実際には、漸く医者から説明されたり、シーツを変えられたり、膳を据えられたり、免疫抑制剤を飲まされたりなどは有ったが、その間も私は何処かうつつでなく、結果、気分的には何事も施されずに病床に貼り付けられているような感覚だったのである。時刻が更けるにつれ、右腕の自由がだんだんと効かなくなり、今は既に、当初のような殆ど不具の状態まで戻されていた。

 私を未だここに留めている殆ど唯一の理由らしい、術後躰におかしなことは起こっていないかと言う監視の為に、印具でない看護婦がちらちら訪ねてきてはすぐに帰って行くのだが、そんな彼女らは、余りに長っちりな同室者について、一瞥するだけで何も言ってこない。時々外も騒がしくなるし、訳の有る患者が押し込められた病棟なのだろうか。

 今、先んじて述べてしまったが、そう、あの二人はまだこの部屋で頑張っていた。私のベッドから離れるようにはなったものの、メイド服を隠している女の方も、眼鏡の女の方も、恐らくは涼を待つ待合室の代わりとして、ずっとここに居るのである。「そいつらがここに居るのは、私の意志じゃない。摘み出してくれ。」と適当な看護師に言えば叶っただろうが、この魔女共も涼のことを想っていると想像すると、そんな気も失せてしまい、仕方なく私は無視を決め込んでいた。例えば、今は狸寝入りをしている。このまま本当に寝ついてしまいたいものだが、胸が絶え間なく騒めいていて、きっと叶わないだろう。

 シオジ、というらしい、眼鏡の女の方が、立ち上がったような音を立てた。そして、恐らくもう一人の、カスミなる女の近くへ座り直して、

「貴女、大丈夫なの? こんな都内に長居してて、」

 返事は澱み無かった。

「既に、家政婦長ハウスキーパーに何度目かの御聯絡をしたんですよ。」

「なんて?」

「加々宮様が、たおれたと。」

「そうしたら?」

「事態が落ち着くまで、死んでも離れるな。仮に役に立てなそうでも、僅かにでも役に立てる可能性は決してついえきらぬのだから、とにかく離れずに、気を張り続けろ、と。」

「成る程ね。……本当ウーラって、センセのこと気に入ってるんだね。」

 これは、シオジなりのいとぐちだったらしく、本題が続き、

「でさ、貴女達って、鎗田をどうするつもりなの?」

 私は、身動みじろいでしまわないように苦心した。

「どうする、と仰いますと?」

「だから、貴女達としても、は憎たらしいでしょう? それこそ、矢田野夫婦だってなかなか役に立っていたでしょうに。涼センセは、少なくともさっきまでは、鎗田を生かそうと全力で頑張っていたし、私もそれを――複雑、だけどさ、――応援しようと思っていたけど、貴女達はどうするの?」

 矢田野の名が出たと言うことは、結局、カスミは龍虎会の者だったのか。しかし、こいつが虎川と同一人物とはどうも思えない。すると、どういうことだったのだ? あの大雨は、

 私がこんなことを思い巡らせられた程度に、カスミは返事をたっぷり留保していた。漸く、その無感情な声を出し始めるに、

「まずなんですが、我々、――つまり、ではなくは、〝災炎の魔女〟の正体を知りません。」

 私と同じ大きさの驚愕を得たらしく、シオジの返事は幾らか遅れた。

「は? どういうこと? そんなこと、貴女がとっくに聯絡したでしょうに、」

「いいえ、しておりません。〝災炎の魔女〟が無事 neutralize されたこと、加々宮様がその余波で斃れて開頭術を受けている、という所までは、お伝えしましたが、それ以上のことはお伝えしておりません。例えば、……具体的にどう、〝災炎の魔女〟が neutralize されたのか、などは、」

 また、間が置かれてから、

「えっと、びっくりした。……いや正直、自分の意志も無しで、粛々と命令をこなす人種だと思ってた。」

「いえ、その通り、私はつまらぬ人間です、汐路しおじ様。私は、『を全部聯絡してこい』という家政婦長ハウスキーパーからの御命令に、ただ従っているだけです。この場合の取捨は、当然私の仕事でしょう。」

 今度は、カスミが間を置いてから、

「それに汐路様、……あの方が私の立場ならば、同じ様にされたと思うのです。即ち、組織の責任を負わなくても良い立場であれば、あの方は、どうせ死にかけた仇敵をくびって溜飲を下げるよりも、友の支えとなってくれるらしい者を、生かしておくことを喜んで選ばれたでしょう。

 しかし、現実はそうでないのです。実際のあの方は、自分の感情の為だけに選択をお行いになれない。マザーや、組織をお立てにならねばならない。そしてそうなれば、どうしたってには死んでもらわねばならないし、死んでいないのならば、殺さねばならない。でも、これは、本意ではないのです。側仕えとしては正しい選択でも、駒引こまひき麗子うららことして嬉しいものではない。

 そして、別に我々も実は、『殺害』が必要な訳ではないのです。我々に必要なのは、殺す瞬間ではなくて、〝災炎の魔女〟という、女の死だけ、結果だけです。ならば、私が家政婦長へつまらぬことを余計に伝えなければ、目的は、、既に成就されているのです。憎き敵は、既に討伐されり、と。」

 シオジは、じっと考えるような時間を取ってから、

「意地悪なこと、訊いていい? もしも、貴女達の副長なりマザーなりが、真相を知ったら?」

「御指示に従うままです。鎗田を殺して来いと言われれば、そうしましょう。」

「もし、死んで詫びろ、と言われたら?」

「死にましょう。」打って響いたかのような、躊躇ためらいの無い返事だった。「……汐路様、我々の忠義とは、そういうものです。あの方の為に必要なら、あの方を欺き、あの方に背き、そして、その報いを全て有り難く頂戴するのです。」

 正直、気味が悪いと思った。興味の持てない宗教画のように、中身の無い、愚かな無私と感ぜられたのだ。でも、これが、カスミという女の正義なのだろう。これが、この女の、生きる意味なのだろう。自分も尋常ならざる正義を抱えてきた私は、この覚悟を蔑む訳にはいかなかった。

 カスミの、白木の柝から発せられるような言葉に、シオジも何か感銘を受けたらしく、真面目な声音で、

「なんか、……思ったより、ずっと面白いね貴女。沙羅さら嬢が、〝雨女〟の力の余燼を貸してきただけあるよ。どういう仕組みなのかは、良く知らないけど、」

 私の興味が著しい場所へ話題が戻りそうになったので、耳をそばだてたのだが、病室の扉を開く音に邪魔された。

「は? 貴女達、何でまだ居るの?」

 入って来たのは、印具の声である。

「出て行けとも言われなかったからね。」

「いや紗智夜姐、そんな、必死だった人間の揚げ足取るような、」

「そこは、御免よ奈津美なつみ。でも、とにかくそういう真似をしてでも、私達は待っていたかったのさ。」

「まぁ、……分かるけど、」

 この会話で起こされたと見えるように、私は目を擦りながら上体を持ち上げた。

「何よ、また投薬?」

「ああ、違くて、」印具は、やはり雰囲気の操作に手慣れているらしく、表情と声音で場を一挙に引き締めた。「涼先生の、話。」

 この看護婦は、私も座るよ、と、適当な椅子を引っ張って来てから、

「まず、今更だけど私は医者じゃないし、こんなことふらふら喋っていると言うのは、二重にも三重にもい。私が喋ったと、口外しないでね。また、内容の正確性も、完全ではないかも知れない。それぞれ、覚悟しておいて。」

 この口上の間に、シオジとカスミはおのがじし椅子を持って近付いて来た。

「で、とにかくどうなの?」と急かすのはシオジである。

「ええっと、まず、手術はとっくに終わって、まだ涼先生は死んでない。というか、意識が戻って会話も出来ている。」

「まだ、って何よ、余計なこと言って良い場合と悪い場合の区別もつかない訳?」

「ああ、御免紗智夜姐、でも、真面目な表現なんだって。そもそも、今回涼先生に何が起こったのかと言うと、ええっと、脳の中と言うか外側と言うか、とにかくそういうややこしい場所の動脈が破裂した。風船みたいに膨らんでいた箇所が、それこそ、風船のように、ばん、と、」

「脳卒中?」

 私の言葉へ、纏め髪を乱し始めている、疲れ切った様子の看護師は、

「そういうことだね。で、こういうのって、向こう一月くらいは、またいつ死にかけるか分からないんだ。一旦開頭術が成功裡に終わっても、全然安心出来ない。だから、誠実な表現は、どうしても『まだ死んでない』とかになる。助かる可能性の方が高いとは思うけど、でも、断言は全然出来ない。」

 私は、動かない右の手で口許を押さえようとし、叶わないことにまた小さいショックを受けながらも、とにかく言葉を出した。

「なんで、あんな若い彼女が、」

 こう言うと、印具は此方を見据えた。

「『なんで動脈が腫れたか』、これについては、全然分からない。強いて言うなら、不運とか、遺伝。でも、『なんで腫れた動脈が破裂したのか』、これは、分かるよ。つまり、アンタの所為せいだよ鎗田玲子。」

 ……は?

「アンタが、彼女を絶望、つまり興奮させて、生まれつき病的に高かったという血圧を更に上げさせて、その上で頭を引っぱたいたりもしたから、破れかけていた動脈瘤がとうとうやられたんだ。十中八九そうだよ!」

 目が痛くなる程に白々しい筈の病室が、突然真っ暗になったような気がした。私、が? 私を助けてくれた涼を、私が?

「何しょぼくれてんだよ、〝災炎の魔女〟!」印具が、いきり立った。「巫山戯んじゃないよアンタ、これまで散々人を殺してきて、アタシ達が必死に人命を救っているのを嘲笑うような真似を、無にするような真似を何度も何度も何度もして来たくせに、今更一人殺しかけたくらいで滅入ってんじゃないよ! その程度の覚悟で、人を殺すな! 命に、気安く、触れるな!」

 この、シオジとは逆方向からの論撃に対し、寧ろ罪無き市民の命を救う為に私は戦ってきたのだと抗うことは、論理の視点からは可能だったろうが、しかし、私には遂行出来なかった。一度、互いを殺さずに済み、心から共に喜んだ涼を、結局私が死へ至らしめ掛けているという急転の絶望に、その奈落の落差に、堪えるのに必死だったのである。

 看護師が患者へ喚いてしまったことを反省するように、印具は、暫く渋い顔で目を閉じてから、

「たださ、。私がこの話をしたのは、アンタを責める為じゃないんだ。寧ろ、うん、その意気に報いて、ちょっとアンタに誇らしさを与えてやろうと思ったんだよ。」

 意味が分からずに、眉を顰めた。

「誇らしさ? あの子を、半死にさせておいて?」

「まず、さ。確かにアンタの所為で涼先生の蜘蛛膜下腔くもまっかこうの動脈は破裂したけど、でも、多分今日でなくとも、いつかは破裂していたと思うんだよ。二十歳過ぎの健やかな女の頭に造影剤を突っ込む医者は居ないから、事態に気が付いて何か手を打つ前に、近々こうなってたと思う。だから、アンタのしてくれたことをより叮嚀に言うなら、決して遠からず来たであろう、加々宮涼が臨死するXデイを、今日と言う日に移動したってだけ。

 そう考えるとさ、別にアンタは涼先生の不幸を増やしてなくて、寧ろ、減らしてくれたように思えるんだよね。」

 印具の言葉の前半は、確かに大きな慰めであったが、しかし、残りの意味が分からない。

「減らす? どういうこと?」

 彼女の顔が、激情を発する為のものではなく、論理を説く為のそれに変わっていた。

「日中、この部屋で、そして私が居る時に、涼先生は倒れた。実は、ある種これは、本当に最高だったんだよ。つまり、脳外科医が普通に勤務している時間帯に、名に負う病院で、医療者の目の前で発症したんだ。お蔭で、すぐに最適な対処を開始出来て、躰へのダメージを最小限に喰い止めることが出来た。さっき、私が、『助かる可能性の方が高い』って言ったのも、大いにこれのお蔭。教科書事例のように速やかな対応が出来たから、死なない可能性の方が高い。……重ねて念を押すに、高いってだけで、断言は出来ないけど。

 とにかくこれは、……アンタのお蔭なんだよ、。でかしたよ、アンタ。」

 この言葉が私をっている内に、シオジが、

「奈津美、アンタ、わざわざそんな事言ってやるんだ。」

「そりゃ私だってこいつ大っ嫌いだけど、でも、殆ど客観的事実だからね。

 それに、……これから言うことに関して、この話を知ってることが、鎗田玲子、アンタにとって重要だと思ってさ。」

 この、どちらかといえば喜ばしい事を前置きにしたのだ、という趣旨の発言が、逆の属性の話題が続くことを予感させて私を苦しめた。

「まだ、……何か有るの。」

 看護婦は、大きく頷いた。

「で、一命を取り留めた涼先生だけど、なんか、別の問題が起こっているみたい。頭の中で血が洩れたからって普通そうはならないんだけど、でも、これによる衝撃、そしてアンタに拒絶されたことによる衝撃が、多分、何か、彼女の精神に悪い

「さっさと本題を言いなさいよ! センセが、どうしたって?」

 シオジの叫びは、殆ど私の気持ちを代弁していた。何につけても相容れぬであろう我々が、奇妙に感情の磁束を揃えていたのだ。カスミですら、少し身を乗り出しており、その無感情の装いが焦れに損なわれ始めている。

「じゃあ、まぁ、言うけど。……涼先生の記憶が、飛んでる。ここ半年弱分、」

 漸く返事を絞り出したのは、シオジだった。

「記憶?」

「そう。……おかしいんだよね、この手の発作や手術の影響で、新しいことが憶えられなくなるのは有り得なくもないんだけど、昔のことが思い出せなくなるだなんて、」

「印具様、」驚くべきことに、カスミが口を開いた。「率直に申し上げますが、我々のそれを遥かに凌駕する、貴女様の医療知識には舌を巻きますが、しかしそれだけに、我々に説いて下さっても何にもならない場所へ脱線を起こすうらみが御座います。我々へ仰るべきことを、まずそうして下さいますか? 貴女様が職権を超えるという危険を冒してまで私達へ話して下さっているからには、別に医学講釈を垂れたいのではなく、何か、抜き差しならぬ事情が有るのでしょうから。」

「ああ、御免なさい。ええっと、そう、有るの。凄く大事な話が。でもまぁ、前提は話し終えたんだけど、

 うん、そう、皆ちょっとおもんみてみてよ。涼先生が、ここ半年の記憶を脱落させたのなら、一体何が起こる?」

 私が気が付いて呻くと同時に、シオジが叫んだ。

「そっか、センセは、……私達のことを忘れているし、そして、魔女なんかになってない!」

「それも、そうですが、」カスミが、初めて表情らしいものをうっすら見せた。多分、感喜だ。「何よりも、加々宮様が、鎗田様の正体を知らぬままと言うことですね。ここ数日で、漸く辿り着いた真実だったのならば、」

 印具が、突然立ち上がる。魔灯の当たり加減が変わったことで赤十字のピアスがまともに光を受けるようになり、それは、耳に掛かる暗いほつれ髪の林の向こうで、夕星ゆうずつのように煌めいた。

「どうなのよ、鎗田玲子。」決された眥に伴う、疲労に血走った目が私を射貫く。「どうなのよ、これでも御不満? これでも、アンタは涼先生と共に歩めない? アンタが言い訳のように気に掛けている、魔女になった者とは親しめないというアンタ側の事情と、親の仇と過ごすことなど出来まいという、先生側に置いた事情が、綺麗さっぱり見事に両方解決されたのだけど? これでも、アンタは、あの子を、或いはあの子の想いを、捨て置いてしまうと言うの!?」

 私は、この激する看護婦の目に同調するかのように、瞠目しつつ言葉を聞いていたが、聞き終えてすぐに、上体を、海老のように丸めてしまった。私が意識の何処かでこの効果を狙ったのかは定かでないが、お蔭で、落涙を誰にも見られずに済んでいる。

 左の拳を握りしめ、寧ろ右手よりもふるわせながら、

「『奇蹟』、……涼は、さっきそんな言葉を使っていたけど、でも、これこそ、本当に、奇蹟、なのだわ。彼女が、親の仇を知ってしまった。そして、魔女に染まってしまった。これら、私が絶対に彼女と相容れられなくなる材料は、しかし、彼女が彼女の夢、つまり、親の仇を討って、そいつによる被害を留めると言う、血塗られたそれの成立に、到達する為に不可欠だったことで、ならば、……それを求め続けていた彼女は、成就と、私との日々を両立させることは、絶対に不可能だった。数理の排他原理のように、単純に、絶対な不可能の筈だった。

 なのに、……なのにあの子は、あの子の命運は、こんな、命懸けの奇手を! こんな、こと、本当に、有り得ない。……それこそ、大いなるものの意志でもなければ、……奇蹟、によってしか、」

 私のこの訳の分からぬ譫言うわごとを、場の者は静かに聞いてくれていたのだが、突然、病室のドアがノックされた。皆、肝を潰されたし、水を差してくれぬなと言う想いも共通していただろうが、医師かも知れない以上邪慳じゃけんに出来ぬらしく、不本意な顔をした印具が、手振りで静まるように場へ命じてから扉を開けに行く。私は、この隙に涙を拭いていたので来客の瞬間を見逃したのだが、その声音には聞き憶えが有ったのである。

「あのー、……立て込んでます? 今なら面会に行ってもまぁ良いんじゃない、って言われたんですけど、」

 私が目を向けると、果たして、彼の姿が有った。

「銀大君?」

「お久しぶりです、鎗田さん。……他の見舞客の方達ですかね、後日、出直した方が、」

「あ、いや、」私は、目の動きだけで『お前ら余計なこと言うなよ』と伝えてから、

「大丈夫。うん、いらっしゃい。」

 魔女の巣窟へおずおずと入ってきた、矢田野の息子、銀大かねひろは、

「あれ、汐路さん、……なんで、ここに、」

「何故って、玲子姫の見舞いに来たに決まっているでしょうに。」

 一瞬、誰の名かと思ったくらい、空々しい呼称だった。

「ああ、鎗田さんとお知り合いだったんですか。……なんか、印具さんも居ますし、奇遇ですね色々。」

 ここで、カスミが卒無く中座しようとしたので、私はそれを止めた。

「ねえ、銀大ぎんた君。彼女も、私や涼ちゃんの共通の知り合いなの。私達の話、聞かせても良い?」

「えっと、良く分からないですけど、そういうことなら、」

 私へ見せた二つ目の表情として、カスミは、銀大へ見えぬよう、怪訝そうに眉を顰めたが、私は無視して話を進めた。

「で、何かしら。」

「ああ、えっと、……まず、鎗田さんが事故に遭ったと言う、腕の話なんですけど、」

「ああ、」私は、戦慄わななく右手を、何とか持ち上げながら、「今は御覧の有り様だけど、今朝涼ちゃんに試してもらって、うん、その時はちゃんと動いたの。本当に有り難う、どうお礼を言っても足りないわ。」

 魔女二人と市民二人に囲まれていると思い込んでいる彼は、言葉を選ぶのに一々苦労しているようだった。

「ええっと、そう、言ってもらえると、姉ちゃんも喜ぶと思います。……で、その、姉ちゃんのことなんですけど、」

 私は、素直な感情のままに、小さく真剣に頷いてから、

「うん。……大変、なんですって? ひとまずは一命を取り留めて、そして、最近のことを全然憶えていないってことまでは聞いたけど、」

「あ、そこまで知ってましたか。ええっと、そう、なんです。記憶もそうですし、何よりも命の方が、ここから先まだどうなるか分からない、と。

 で、お願いが有るんです、鎗田さん。今、姉ちゃんは殆ど面会謝絶で、俺だけは少し会って話せたり出来るんですけど、……鎗田さん、姉ちゃんへ励ましとして伝える為に、一つ、約束してやってもらえませんか?」

「え?」

「姉ちゃんが恢復したら、また、ファウンテンを続けてくれて、そして姉ちゃんを使ってやってくれると、」

 私は、彼の知っている筈の情報を急いで頭の中で洗い、そこから、ここでの自然な振舞いを逆算した。それは、笑い飛ばすことだ。

「何言っているのよ、銀大君。涼ちゃんさえ元気になってくれれば、勿論、寧ろ私からこそお願いして、そうさせて欲しいわ。私との出逢いやファウンテンでの働き始めは何年も前だから、ちゃんと憶えているでしょうしね。……そんなの、わざわざ約束しなくても当たり前のことでしょう?」

「いや、そうなんでしょうけど、」矢田野の息子は、気恥ずかしそうに頭を抱えた。「なんか、俺、あまり学が無いから上手く言葉に出来ないんですけど、……何でですかね、こうやって頼んでおかないと、何故か、そうなってくれないような気がしてしまって。なんで、ですかね。鎗田さんの、言う通りの筈なのに。」

 そうとも知らず父母の仇へこんな曖昧な言葉を向けて来た、殆ど無垢な彼は、手を直すと再び顔を上げたのだが、私は、この瞬間、自分の目を疑ってしまった。この子が、こんな、峻厳な、玉串を捧げる禰宜ねぎのような顔を出来るとは、思ってもみなかったのだ。

「鎗田さん、お願いします。……多分、姉ちゃんは、ええっと、に、なろうだなんて、馬鹿なことを思いつく前まで記憶が遡ってしまったと思うんです。かつては俺も協力しちゃったんですけど、でもとにかく、ここが、肝腎だと思うんです。姉ちゃんの、死に物狂いな無茶を確実に止めるには、半年前からのやり直しを、俺や鎗田さんが助ける中で進める必要が有ると思うんです。お願いします、鎗田さん。」

 皆が、私の顔を見ていた。カスミの、何を思っているのか分からぬ様に再び戻った、作り物のような、しかしそれだからこそ見透かして来るような目。シオジの、首を摑んで強迫してくるような目。印具の、幾重もの熱の籠もった目。そして、矢田野の息子の、張りつめた目。

 しかし、私の決断に、最早そんなものの助けは要らなかった。

「何よ、それこそ当たり前でしょ銀大君。私は、涼を、全力で助けるわ。」

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