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 私と汐路の撤収に、なんと安辺も付いてくることになった。「だってボス、まさかふん縛ったアイツらに餓死して欲しい訳じゃないでしょ? でも、だからって無防備に解放したくもない。だったら、俺と下で解散すればいいじゃん。ボス達が行ったら、俺、引き返してアイツらの縄解いとくよ。」との弁で、まあ確かに成る程なあと思わされたのである。

 汐路と安辺は、もう存在しないピースメイカーという組織を偲ぶかのように、その仕来りに従ってエレヴェーターの中ではむっつり過ごし、一階でも黙り込み、そのままビルの外へ出た。夕映えに赭く焼かれる駐車場の中で、先を歩く汐路が私や安辺の方へ振り返ると、夕刻の逆光によってか黒くなった彼女の立ち姿は、哀愁と威容とを綯い交ぜにして誇っているように見えてくる。そして、少しその首が傾ぐと、優しい太陽の姿が頭の上からみ出て来て、彼女の頭髪を麦畑のように耀かすのであった。表情が見えないので傾いだ理由は明らかでないが、もしかすると、私或いは安辺が隠していたのであろう、彼女のビルの姿の詳細を最後によく見たかったのかもしれない。

 その後、それじゃ、と、汐路が言おうとしたのを、安辺が腕の動きで制した。

「何?」

「いや、ボス、最後にちょっと付き合ってよ。」

 彼の指し示す遠い先には、壁を立てただけの喫煙所がぽつねんとしていた。

「アンタ、何歳だっけ?」

「無論未成年。でも、だから?」

 汐路は目を閉じつつ鼻先で笑って、

「はいはい、そんなの私達には関係ないってね。」

 

 狭い喫煙所に三人並び、三文判をひっくり返したように頼りない灰皿柱を取り囲んだ。

「で、アンタ、煙草持ってるの?」

「最後の餞別に、一本頂戴な。」

「私の方が餞欲しいくらいだけどねえ。」

 既に咥えた自分の分をぴょこぴょこ動かしつつそう呟く汐路から、ライターとシガレットの一本を受け取ると、彼は吸い口を口にし、炎を当てて着火を試みるのだが、

「ん? 湿気ってんのかこれ、全然点かないけど、」

「火に差し込んだって、それだけじゃ燃えやしないよ。そうしながら同時に息を吸いな。」

「へえ。」

 私は、嫌な予感がしながら見守っていたが、果たして彼は、加減も知らずに吸い込みながら、点火と煙の第一陣の受け入れまで一気に行ってしまい、肺の方まで焼かれて酷く咳くことになったのである。

 そんな彼の様子を見ながら自分の煙草に火を点けていた汐路は、私へも一本施しながら笑った。

「馬鹿だねアンタ。そんな気はしてたけど、経験も無いのに背伸びなんかして。」

「五月蝿えやい。……えほ、誰だって何事だって、最初からは旨くいかねえや。」

「ま、確かにね。」

 二口目も咳き込む安辺に対して、慣れぬのにそんな深く吸い込むものじゃないと教えてやる気はないらしく、只愉しそうにしながら、汐路は、

「で、アンタこれからどうするの?」

 安辺は、空いている方の手で項を搔きながら、

「どう、しようかね。正直、カレン姫からたんまり分け前もらうつもりだったから、明日からのこと考えてないんだよね。」

「しょうもないんだから、全く、」

「でもまあ、」

 三口目も咳き込んだ彼は、その苦しみに顔を歪めながらも精一杯に口角を上げて、

「とにかくいつか、汐路さん、アンタのこと打ち負かしてやるからそん時は宜しく。」

 汐路は、笑った。

「相変わらず勝ち負けの意味が分からないけど、……まあ、受けて立とうじゃないの。カレンは今度会ったら殺してやるけど、残りのアンタらはそこまで恨んでないし。好きか嫌いかで言ったら、大嫌いだけどね。」

「うーん、乙女心は複雑だねえ。」

「あれだけのことしておいて、平然と煙草を強請ねだって来たアンタの神経も意味不明だよ。」

 丁度煙を吐き終えていた私が、

「そして、それに応じた汐路さんの心も、やはりまた不思議ですか。」

 咳きながら笑う安辺が、

「いやはや、先生も言うもので。……ところでボス、――じゃなかった、汐路さん、アンタこそこれからどうすんだよ。」

「馬鹿たれ。こんな急で、何も決めている訳ないでしょ。取り敢えず目下のことと言えば、……このビルのことは殆ど決着したし、後は、先生へのお支払いかな。もう、ここで解散しちゃうだろうしね。」

「あ、汐路さん、」そう言えば、すっかり言いそびれていた。「もう一泊、貴女のお家でお世話になっても良いですか?」

「あれ、何故?」

「いえ、私、とてもじゃないですけど、こんなに疲れてて魔力も使ってちゃ、糸水まで帰れませんよ。だからとにかくこの辺で一泊は絶対するんですけど、……でも、折角なら、」

「ああ、ああ、」汐路は、手をひらひら動かして私の言葉を制した。「そう言えばそうだった。遠いんだっけね、センセのお家。うん、じゃあ是非泊まっていって頂戴な。あんなあばら屋で良いのなら。」

 彼女のその言葉に、私は、あれだけ疎んじていた汐路の部屋でもう一夜過ごしたいと、これほど深刻に思っている自分に気が付いて驚かされた。無論、この変化は、私の趣味が変わったというのではなく、汐路との間に芽生えた絆の様なものをもう一晩通わせたいという、言わば心の問題だったのである。

 或いは、とうとう私が何かしらの『逞しさ』を、昨日今日の騒ぎで獲得したのかもしれなかったが。

「あれ、その話って俺聞いちゃって良かったの?」

「あ。……あー、うん。やっぱ引き返してカレンの息の根止めとく?」

「馬鹿言えよ、アンタがカレン姫助けたくせに。ま、俺は別に黙っとくよ。一本御馳走になった、せめてものお礼にさ。」

「そ。……まぁ、信じておこっかな。私がこのまま銃没収しておけば、カレンももう襲って来ないような気がするしね。」

 そう言うと彼女は、自分の吸い差しを捩り消した。

「じゃ、そろそろ行こっかセンセ。」

「はい、」

 私も煙草を始末すると、顔の上げ様に、また咳き込んでいた安辺と目が合った。何も言わぬのも不粋と思った私は、

「安辺さん。私とも今後何か関わるかもしれませんが、その時はお手柔らかに。」

「いや、御免だね。汐路のお姉様ならともかく、先生、アンタには逆立ちしても勝てる気がしないよ。」

「いやだから、その勝ち負けってのは何なのさ。」

「うーん、なんだろうね。」

 その相変わらず理窟の通らぬ言葉と、吸ったこともない煙草を貰ってみる健気な背伸びが、やはり、彼のおさないまでの苦悩を物語っていた。汐路があっさりと彼を殆ど許してしまったのも、その、稚さへの同情が有ったからなのだろうか。自己形成を終えきれていない彼の仕出かした不行儀に、自らも思うように行かぬ生涯を送ってきた彼女は、本気で憤ることが出来なかったのかもしれない。これは、汐路の優しさと解釈しても良いのだけど、しかし、そのような優しさとは、上から下を見るように安辺へ接することを必ず伴う筈で、ならば、彼が汐路に対して感じ続けていた苦悩は、その侮りによるものではなかったか? 情報技術者としては汐路よりずっと秀でながらも、その無意識な見縊りにより、彼は永らく透明な、しかししっかりとした苦しみをその軽薄の仮面の下で感じ続けてきたのではなかったか? つまり、今回の騒ぎは、彼と汐路の間のみに限れば、一つの親殺しの物語だったのかもしれない。社会に於いて一般的に見られる反抗期の騒擾から、特に区別されないものとしての。

 現に、私をリアに乗せてアクセルを踏む汐路は、最後に安辺へこう言い残したのである。

「風邪引くんじゃないよ、糞野郎。」


(第三章、了)

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