15

 小玉の用意してくれた〝災炎の魔女〟に関する資料は、確かに彼女の言っていた通り特に目新しいと言うか貴重なものはなく、本気で調べれば私でも市中で見つけられそうなものばかりではあった。しかし、そんな時間を取るのは大変だし、こう体系だって纏められているのは非常に有り難い。この先余り有るであろう時間を、これらの通読に費やそうと私は決意出来た。――いっそ、写しを持って帰らせてもらえないかなぁ。受け取れる予定の、困るくらいの報酬を何割か目減りさせても良いのだが。

 まずは、新聞の切り抜きが纏められているファイルブックを手に取った。特に理由は無く、一次資料に近いものから当たるのが気持ちよいかなと言う程度であり、どれくらい適当であったかと言うと、実際、頭からではなく中ほどの頁から私は閲覧を始めたのである。

 災炎の魔女の仕業と見られている事件の記事が、そこに並んでいた。大宮美保子が向家県の自宅で焼死。大木美優が花園県の旅館で焼死。鈴木莞爾が群虫県の山小屋で窒息死。滝中真智子が割鳴府の自宅で焼死。矢田野鉄哉と矢田野詩瑠美が糸水都の燃え盛るビルの一室から転落死。……飯沼忠司が卵山県のごみ捨て場で焼死。大久保頼子と高澤真代が獅馬県で窒息死。細川信一郎が錐兜県の、

 ……とにかく、糸水都を中心とする都県で犯行は行われている。たまに、割鳴府だったりと飛んでいたりはするが。いずれの場合も被害者の死因は火に纏るものであり、〝災炎の魔女〟という、政府も用いる公式の異名はそこから来ていた。しかしその名から受ける印象に反し、大規模な火災を起こすようなことは無く、彼女――どうせ魔術師、つまり女だろうと言うのは広く受け入れられている前提である――が殺したいと思った対象のみを精密に死に至らしめるようではあった。何を以てその対象としているのかは、つまりこんな者の思考回路などは、知りたくもないが。つまり、彼女はシリアルキラーの類いなのである。火に魅せられた放火魔ではなく、肉と命の耀き、或いは狂った正義に強いられて動く、この世で最も蔑まれるべき狂信者。

 ふと、小玉の方を見ると、 彼女はいつも通り困り眉をより顰めてはいたのだが、しかし更には身を縮こめようとまでしていた。

「何か?」

「ああ、いえ、」いとも言い辛そうに続けるには、「加々宮さん、とても怖い顔をされていましたが、」

 私は、はっとなって首を二三度振ってから、

「済みません。ちょっと、必死になりすぎましたかね。」

「ええっと、」小玉は、気弱そうな態度のまま、「今加々宮さんの御覧になっている頁なんですが、実はそこは、何らかの形で龍虎会ウチと関わりの有った人間が災炎の魔女にやられた事件を纏めたものなんです、御参考になれば、……と、一応お伝えします。」

 これを聞いた私は、どう返したものかと真剣に思い悩んだが、許されるであろう猶予の内に良い文句を思いつけなかったので、「へえ、」とだけ呟いて視線を再び手許へ戻した。

 新たな頁を捲ると、そこでは、一つの記事切り抜きがほぼ全面を占有していた。災炎の魔女の特集であり、その手口や、またそこから類推されると言う人物像が一応詳細に描かれている。まぁ、この国のメディアに於いて一般的な様に、そんな類推は眉唾なので、「性別:女であろう」の部分以外は完全に無視した。つまり読む価値の有りそうなのは手口の方のみであり、これまで災炎の魔女へ病的な興味を抱き続けてきた私にとっては恐らくそこにも目新しいものは無いのだが、一応ざっと読んではみ、そしてその後、時間を無駄にしたことをちゃんと後悔したのである。

 このファイルはあまり面白くなさそう、つまり私の既に持つ情報を強化してくれも共鳴させてくれもしなさそうなので、閉じて卓上へ戻してしまい、他の資料を目で探し始めた。その中で、『法医学的視点による災炎の魔女の解明』と称している紀要の別刷りに興味を持ったので、ぱらぱらと捲ってみることにしたのである。

 その内容の概ねは、以下のようであった。災炎の魔女の事件の少なからずに於いて死因は焼死とされているが、一般論として、この言葉は実に大雑把な分類である。そもそも、実際に於いて人が文字通り『焼け死ぬ』ことは比較的困難だ。火事に見舞われた人間は多くの場合に於いて、有毒ガス或いは酸欠空気によって意識を失い、その後様々な方法で死に至るのである。呼吸を損じてからの死であるのだから、躰が焼け尽くされるよりもそのまま窒息死或いはガス中毒死することが多いのは自然の理であろう。さて、災炎の魔女の事件の話に戻るが、その被害者の多くに於いて、確かに火災現場らしく呼吸不全による死の痕跡が見出されているものの、しかし同時に、気道や口腔内が比較的綺麗な状態であったと報告されている。これは重要な知見であり、即ち、それらの組織が煤の侵襲や火傷に見舞われていないのだ。火災現場と言う地獄の様相、つまり、高熱かつ灰を多分に含んだエアロゾル――私はこの言葉の意味を解さなかったが――の中で人間が生命活動を維持すべく呼吸を行えば、当然に気管は灰にまみれ、口腔内は偽膜――この言葉もよく分からない――を伴う酷い火傷を負う筈なのである。それらが、災炎の魔女の事件における多くの被害者に於いて見られていないと言うことは、彼乃至彼女が火災現場での呼吸を長く経験する前に絶命させられたと言うことになるのだ。焼身自殺などに見られる、直截な猛炎によって死亡した事例を除けば、これは、どちらかと言うと焼死とは呼びがたい死因に於いて顕著な所見である。何かしらで死に至らしめられた後に、遺体あるいは現場へ火を放たれた事例などが好例だ。

 さて、災炎の魔女による被害者の少なからずにおいて、炎熱に関係しない呼吸不全による死亡が推測されることになるわけであるから、その様な話の具体にも少し触れておこうと思う。有毒な空気の下で呼吸を行う事によって死亡する場合、分かりやすいのは、その空気の中の有毒な物質が当該人物を死に至らしめると言うものであろう。この言及は無意味なトートロジーに見えてしまうかもしれないが、実はそうでない。有毒な空気とは、勿論一酸化炭素や硫化水素を含むものもそうであり、火災現場においては典型的なものであるのだが、同じく見られるものとして、単なる〝酸欠空気〟と言うものが有る。呼吸に関するナイーブな理解として、人は二酸化炭素を吐き出して酸素を吸うと言うものが有るが、そもそも大気中の酸素の割合が百パーセントではないことから分かるように、これは誤った説明である。また、吸気が純酸素ではないのと同じ様に、吐気も純二酸化炭素などではなく、大気よりは二酸化炭素が多い程度の、当然酸素もそれなりに含んでいる気体混合物というのがその実体として正しい。言い下せば、動物は、酸素の濃いめの空気を吸い、二酸化炭素の濃いめの空気を吐く。つまり、常に、それこそ息を吐き出す直前ですら、肺の中には一定量の酸素が存在しているのだ。さて、酸欠空気の何が問題になると言うと、吐気よりも低い酸素濃度を持ったそれを一度吸い込むと、肺の中の酸素分圧が一気に奪われてしまうということである。単純に、普段はあり得ない低酸素濃度の空気が肺の中を占めてしまうということだが、この効果は、血液への酸素の供給を速やかに遮断し、寧ろ逆にそこから酸素を奪い去り、多くの場合に於いて致命的な結果を齎す。勿論酸欠の度合にも依るが、余りに酷い場合は即座に視界や意識を失ってしまう。これは、大量の酸素を必要とする脳の活動が、まず酸欠で脅かされる為だ。こうして意識を失った場合、当然被害者は無抵抗に酸欠空気へ晒され続けることになる訳で、殆どの場合そのまま最悪の結果が齎される。つまり、言ってしまえば、あらゆる酸素以外の気体は、その存在自体が、吸気中の酸素濃度を追い出してしまうと言うことで有毒と成りうるのだ。更に火災現場の場合、ガスの発生だけでなく燃焼による酸素の消耗も同時に起こるわけで、毒性物質と同じ程度に酸欠による有毒性は意識されるべきである。酸欠空気に晒された場合、手巾などによる懸命のフィルターも意味を為さないので、『出来る限り、それを吸うな。』、対処手段はこれのみだ。前述のように、吸ってしまうと寧ろ肺の酸素が奪われる有毒雰囲気なのだから、呼吸を止めてしまった方が遥かにましである。ただし、勿論呼吸を我慢するのに限界も有るし、また現在の酸素濃度や有毒物質の濃度がどの程度か、つまり吸った方がましなのか吸わない方が良いのかを知る術は多くの場合災難者に無いわけで、残念ながらこれはあまり役に立つことの出来ない知見であろう。可能な限り速やかに退避して、たとい要救助者が中に残ってようとも、呼吸補助装置無しでは絶対に酸欠現場に再入場しないというのを心掛ける程度である。有毒ガスの場合は恐怖本能から自然に遵守される話であるが、酸欠空気のみであると事態を見縊ってしまうのが人間と言うものらしく、被害が絶たれない。

 では、災炎の魔女の話に戻るが、その被害者の死因の統計処理に於いて――

 ……以降も何やら続いたが、読んだことを一旦整理する為と、条文のように硬い文体やグロテスクな資料写真――この後の夕食で肉料理が出てきたらどうしよう――に辟易し始めたことで、私はここで目を離してしまった。毒気体を含む訳でもないのに吸わない方がましな空気なるものが存在すると言うのは、興味深い話である。このことも含めて是非ノートを一旦取りたく、文房具を小玉に要求してみようとも思ったが、恐らくは彼女を困らせるだけであろうと想像してやめておいた。そんなものを許せば、私の情報発信を禁止している意味が無くなってしまうだろう。

 そうやって取りやめたにせよ、私は一旦小玉の方へ視線を送ってしまったので、所在なさげにしている彼女と目が合ってしまった。うむ。彼女には感謝しているし是非親御さんの為に頑張って欲しいんだけど、しかし、こうして資料に耽っている以上そりゃ会話を持つ理由は無くなってしまうし、そもそも無聊というか居心地悪さを乗り越えるのも見張りの仕事の内だからしょうがないよなぁ、と感じながらも、そこはかとない後ろめたさから私は彼女へ話し掛ける事にし、

「ちょっと、また小玉さんにお訊きしてみていいですか?」

「はい、」嬉しさを少し隠しきれない声音で、「私でお答え出来ることならば、何なりと、」

「えっと、」折角なので、不思議に思っていたことを素直に訊ねてみることにし、「〝雨女〟こと虎川さん、ええっとつまり、〝マザー〟って、常にその場を大雨にするんですよね?」

「はい、今の加々宮様と同じ様に。」

 私は、明後日の方向へ一回視線をやって考えてから、

「そっか、そうですよね。私のせいで今も大雨なんですよね。……全然実感が沸かないんですけど、」

「この屋敷は、窓がどうしても少ないですからね。」

「どうしても、と言いますと?」

「例えば中庭とか作ろうとすると、マザーの雨によってプールみたいになってしまうんですよ。」

「あー、……成る程、」

「水捌けを工夫すれば大丈夫なのかもしれませんが、詰まったりしたら大惨事ですよね。と言う訳で、」両の人差し指を舞わせ、横長の長方形を宙に描きながら、「この邸は上から見ると洞を持たない平面図形となっているんです。そこで、どうしてものようなものが小さく、窓を張れる場所も少なくなる、と。土地面積をなるべく使い切ろうと凹部の少ない形状となっているので、尚更、」

「成る程、」

 基本的に役に立たない情報ではあったが、この話の披露で小玉の自尊心が幾らか恢復したように見え、知人或いは友人として彼女を見るにしても、また情報源として彼女を見るにしても、好もしい効果が得られた気がした。

 しかし、そう思うと皮肉だ。この、世界で一番雨に打たれる地に住まう者達は、然程その雨の存在を感ぜずに日々を送っていると言うのだから。

「それで、加々宮さんのお訊きたいことって、」

 おっと、忘れていた。

「ええっと、そうです。そうやって常に大雨に見舞われる虎川さんは、どうやってその遊説――とやら――に於いて移動しているんですか?」

「どうやって、……と言いますと?」

「ですから、船なら沈みそうですし、旅客機でも離着陸がとても危険でしょうし、またいずれにせよポート港あるいは空港の運営者に酷く辟易されるでしょう。出発時は貴方方の力で根を回せるかもしれませんが、行き先の方では特に、」

「ああ、それはですね、」

 小玉は、話して良い情報か確認するように間を取り、差し支えなかろうと彼女なりに断じたらしく、

「転移魔術師を、ウチで抱えているんですよ。」

「テンイ?」

「転がす移す、の転移です。」

「ああ、転移。あまり詳しくないですけど、たしか我々複写魔術師と同じくらいの希少度と聞いてますね。つまり、そこら辺には居ないけど頑張って捜せば何とか見つかるかも、くらいの、」

「そうらしいですね、勿論私は加々宮さん以上に知らないのですが。

 で、とにかくマザーは、ウチお抱えの転移魔術師の力を使ってへ移動している訳です。招かれるべき場所、つまり雨が少なくて困っている場所であれば、綿密に先方と調整した上で然るべき時宜・地点へで転移しますし、招かれざる場所、つまりマザーの力で灸を据えに行くのであれば、適当な程度の被害の出そうな情況を選んで転移する、と、」

「成る程。そうやって、硬軟の働きかけを他の勢力或いは国乃至地域へ行う訳ですか。」

「はい。ただ、攻撃的な方のは基本的に国内に限られるようですけど。国際的な転移は受け入れ側の協力が無いと難しいらしいですし、成功してもド派手な密入国になってしまうので、本当に国丸ごとを相手に戦争する気じゃないと駄目ですよね。」

「一方、恵みの雨であれば相手側も協力してくれるから大丈夫、と、」

「はい、そういう事です。」

 不思議、だな。国を跨ぐ転移は難しいという話だが、国境と言うどう考えても人間の都合による境界線に対し、自然科学の領域である魔術が感応出来る訳が無い。つまり、各国家が何かしら工夫しているということか。転移魔術の進入を妨げるような、莫大な術式を張るとか? 如何にも大規模で大変そうな話だが、しかし確かにそういう方法が開発されていないと、国家間だけでなく、大統領官邸にヤクザ者が飛び込んでくるとか発生するだろうから、何か有るのだろうな。となると、例えばこの邸でもそういう防衛上の工夫が?

 興味深い話だが、しかし小玉に訊いても絶対に分からないだろうなぁ、そもそも龍虎会がどうこうと言うよりは一般的な話も気もするし自分でいつか調べなければ駄目か、と思い、次の話題を頭の中で探していると、彼女の携帯伝話器が出し抜けに鳴動し始めた。

 小玉が、伝話器をしっかり右手で持ち、釦の並ぶ面をしかと睨みつけながら、絶対に押し間違えまじという気魄の下、絞り出すようにそれを操作し始める。

 しかし、結局音量は妙に大きいままで、

『ちょっとなぎっち、さっさと出なさいな。』

「ああ、申し訳ありません側仕え、」

『まあ、いいけど今更。で、涼っちが居るなら、お夕飯にしましょうって伝えてから連れて来て。それじゃ。』

 もう、そんな時間だったか。

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