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 陪食後、「貴女が余りに可愛らしいものだから、昨日はうっかりしちゃった。」などと言いながら、駒引はスパークリングワインを出してくれた。昼前の、ビール瓶がどうのこうの、という話で思い出したのだろうが、しかし、私の見た目が酒呑み然なのなら『うっかり』する理由にはならない訳で、まぁまた適当なことを言っているのだろう。「本当は、あまりディジェスティフとして出さないお酒だけど、」などという、私の知らない横文字を含んだ駒引の言葉は、その衒学的な響きが鼻に付いたので聞き流しておく。

 供されたグラスを持ち上げると、元々濃いめのサーモンピンクに見えていたそれに燭火が差し込み、太陽の様な色合いとなった。少し下ろして、口を付けようとする。その刹那、葡萄酒の甘い薫りに混じった炭酸の薫り――という表現が正しいのかは分からないが、とにかく炭酸飲料から感じるピリついた感覚――が私の鼻腔を襲ってきた。この秘かな『薫り』は、私がそのまま太陽色の液を口にして呑み込むと、舌、そして喉を刺戟して、辛口の風味と相俟って、残っていたチョコレート・デザートの甘ったるさを爽やかに洗い流してくれたのである。

 私が、ついしんみりとしてしまうと、駒引は、

「あら、そんなに楽しんでもらえたかな。」

「あ、えっと。はい、凄く美味しいです。」

「正直大したものじゃないんだけど…… ま、涼っちが喜んでくれたなら良いかな。」

 勘違いした駒引によって水を差されてしまったが、私がぼんやりした気持ちを感じていたのは、ワインそのものによってではなく、その炭酸の風味が日常の記憶を想起したからであった。鎗田さんと働いたり、或いはその後で銀大に炭酸飲料を振る舞ってみたり、という日常から、離れてまだ二日目であると言うのに早くもこうして郷愁を抱いている私は、本当に魔女たる存在になれるのか?

「さて、涼っち。この後はまた一緒にお風呂行きましょ。」

 来やがったな。

 断乎としてお断りしたい私は、

「ええっと、駒引さん。申し訳ないんですけど、実は私、人と一緒にお風呂入るの得意じゃなくて、」

「あら、どうして?」

「どうして、って訊かれると恥ずかしいんですけど、……小学生の時に作った、瘢痕がお腹にあって、」

「ああ、」駒引は、私の入浴時の態度を思い出したようだった。「そういえば変な姿勢しているなぁとは昨日思っていたけど、そっかそうだったんだ。御免ね、気が利かなくて。

 ま、昨日一回は一緒に入ってもらえたし、そうしたら今日から別々に入ろっか。」

 そもそも当然のことのように共に入浴するのが尋常でなかったよなぁ、と思いながらも、私は流れ上、

「有り難う御座います、駒引さん。」

「いえいえ。明日からも沙羅っちの代わりに頑張ってもらわないと行けないのだし、ならば伸び伸びとお風呂入って英気を養ってもらわないと――久々に一人で入ることになるから、私はちょっと寂しいけどね。

 で、そうしたら私、これから執務室で仕事してくるから、その間に涼っちお風呂入っちゃって貰えるかな。」

 そう言うと駒引は、また案内に小玉を呼びだすべく、白銀色の伝話器を操作し始めた。

 

 その後も、こんな日々が繰り返された。三日目、四日目となっても霖雨は止む様子を見せず、六日目の今日もざんざん降りのままで、複写魔術師として喚ばれた私の役目は無事果たしきれそうである。来客の相手、あるいは駒引の遊び相手をさせられる以外の時間は、例の控室で小玉と一緒に籠もって過ごしていた。何もかも読みきってしまうかと思っていたが、彼女が毎日何かしら新しい資料を見つけてきてくれるので、まるで退屈せずに済んでいる。

 夕食後、そうやって追加されたピンク色のファイルを眺め終え、ふと小玉の方へ視線をやると、彼女は伝話器で誰かと、まぁつまり駒引と話しているようであった。

 通話はすぐに切れて、

「ええっと。加々宮さん、今側仕えから聯絡が有りまして、明日の昼にはマザーが帰って来られるそうです。」

「というと、」

「はい、」小玉は、私へ目線を向けたまま伝話器を蔵いつつ、「詳しくは側仕えからお話しますが、明日には加々宮さんにお帰りいただける、ということになるかと。今日まで、有り難う御座いました。」

 私は、素直に、

「あ、いえ、寧ろこちらからこそ有り難う御座います。小玉さんには、本当に、」

 と、ここでまた小玉の伝話器が鳴動した。相変わらずの病的な慎重さでそれを操作した彼女と駒引との会話は、二言三言で終わり、

「加々宮さん、早速側仕えが執務室へお呼びです。加々宮さんと、私の両方を。」

 そうやって私を案内し始めた小玉の表情がどことなく固かったことに、私は後から思い返して漸く気が付いたのだった。

 

 この時初めて通された駒引の執務室は、余り広くない部屋だった。波打ちや木目と言った自然な特性がそのまま生かされた重厚で古風な紫檀のデスクが奥に据えてあり、部屋の幅は、その両脇に通路のような空間を確保する程度でしかなかった。つまり、駒引がそのデスクに掛ける為だけに存在している部屋であるようだったのだが、奥行きだけはそれなりに有り、私が入室した時にはデスクに至るまでにずらりと兵隊や使用人――霞と雫の姿も見える――が両脇に合わせて十人程度並んでいたのである。こう立ち並んでいるだけならば、マザーを演ずる私が玉座から見下ろしていたものとそう変わりないのだが、しかし明確に異なる点として、今や威圧されているのは明らかに私の方であった。おかしいな、今回の仕事の終え方を駒引と相談するだけだと思っていたのだが、この大仰さはなんだ?

 進むように人(わたし)を促しながら小玉がその列に参じたので、私は仕方なく一人でデスクの方へ向かった。そこに構えている駒引の笑顔が明瞭になって来る。

 中程まで進んだ所で、彼女は、肘を着きつつ両手で編んだ橋桁に顎を載せたまま、

「既になぎっちから聞いたと思うけど、明日もう沙羅っちが帰ってくるんですって。報酬はその時に、計算通りの額を渡させてもらうよ。」

「ええっと、私にですか?」

「そのつもりだけど? だって、振り込んだりしたら足が付くでしょ、ウチは今更だけど、涼っちの方は困るだろうし、」

「ああいえ。それもそうですが、私はお金の話をよく聞いてないですので、私じゃなくて銀大の方に渡してもらえると、」

 これを聞いた駒引は、笑んだ表情を変えないまま、しかし不気味な間をしっかり取ってから、顔の支えにしていた両手を解(ほど)いて背筋を伸ばしつつ、

「成る程、」

「と言いますか、名前が出てきたので思い出しましたけど、銀大に聯絡はしてもらえましたか? 彼に迎えに来てもらわないと、私帰れませんので、」

「ああ、それなのだけどもね。」

 駒引の目が、ぎらついたような気がした。

「単刀直入に言おっか、涼っち。ねぇ貴女、ウチに抱えられるつもりは無い?」

「……はい?」

「貴女と沢山お話させてもらったけど、いやはや良い子で犀利なところも持ってる。魔術師としての実力も、どうやら申し分ない。是非、貴女と一緒にこの先もお仕事して行きたいなぁって。」

 ああ、やたら私を玩具にしていたのは、そういうところを値踏む狙いもあったのか。

龍虎会ウチとして複写魔術師を必要とすることはこれから多そうだし、ならば、是非この先も涼っちにお願いしていきたいなぁ、と。」

「ええっと、……〝抱えられる〟というのは、」

「この邸に住まってもらうってことだね、言ってしまえば。複写魔術師として他所からの仕事を請けることは殆ど或いは全く不可能になるだろうけど、埋め合わせるに充分な報酬はお払いしましょう。銀大っちが失職して困ると言うなら、何か適当にウチから仕事を与えるから喚んでくれて大丈夫、彼が望むのならだけど、」

 私は、悩む振りをしてから、

「折角ですけど、お断りします。」

「あら、どうして?」

「どうしてと言われましても、そもそも私は、一週間かそこらだけ力をお貸しする話でここへ参ったんですから、」

「それはそうだけどさ、情況と言うものは絶えず変化するものだしね。」

「とにかく、困ります。明日虎川さんが戻られたらここを発たせて頂きますから、今すぐ銀大に聯絡させて下さい。」

 駒引は、私を睨みつけながら、しかし口許は綻ばすと言う複雑な表情で、うんうんと頷いてから、

「ま、そうやって流されない強さも、私が貴女に惚れた所ではあるんだけどさ。

 じゃあ、さ、こういうのはどう涼っち?」

 そういうと駒引は腰を浮かせ、無作法に、そして身軽に、それを飛び越すように身を翻させてこちらへ来、デスクへ腰掛ける恰好となった。そして、その右手に抱えられていたのは、

 私が思わず後ずさろうとすると、いつの間にか周囲の者達も駒引と同様なものを一様に握り、そして、こちらへ向けていることに気が付いた。即ち、十を越える夥しい数の、

 駒引の持っているそれの銃口の闇が、丁度私の視点から窺われた。

「こういうのはどう、涼っち? 私の提案を受け入れてくれるなら、見返りに殺さないであげようじゃない。」

 こちらへ銃を構える駒引の目には久々にその老獪さが滲み出ており、更に、我々は脅かしや掛け値でこれを貴様へ述べているのではないのだぞ、と言う、強慾と兇暴さまでそこに蟠(わだかま)っていた。

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