第五章 奇蹟

43

 そこら中の皮膚が、まるで酸液に焼かれたようにじんじんと熱く、痛い。粘ついた疲労感に抗ってどうにか目を開くと、何やら白っぽい部屋に寝かされている自分に気が付いた。快適さよりも清潔さを重視したらしいベッドの上で、固い布地が痛む箇所を刺々とげとげしく撫でてくる。

 寝たままきょろきょろ見回すことで、ここが入院個室であることはすぐに見出したのだが、なんでそんなところに寝かされているのか全く分からなかった。えっと、なんだ、もしかして、前の健康診断で酒や煙草を控えろと言われたし、実際大分我慢していたけど、最近ちょっと緩ませた隙に何か悪くなったか? ええっと、そもそもなんで、控えろと言われたのだっけ、

 突然、ノックも無しに、引き扉が開けられた。入って来たのは、キャップまで揃えた、純白な看護婦姿の印具いんぐである。器用に髪を纏め込んでおり、例の紫色は全く見えない。

「あれ、起きた?」

 奇妙な見舞客と思った私は、つい笑ってから、

「どう、したんですかその恰好。ナースの扮装なんかして、」

「え? ……あ、いや、そうじゃなくて、私普通にここの勤務看護師で、普通に入院患者の様子を見に来たのだけど、」

「へ? ……印具さん、本当に、公然とした医療従事者だったんですか?」

 今日も耳に備わっている乗算記号のピアスの赤みが、真剣なものに見えてきた。

「私はね。針梨栖はりすねえは、闇医者だけど。……ああ、正確に言えば、『公然』というのはやや完全じゃないかもね。つまり、ここも表向きは普通の病院で普通の患者も掛かりに来るけど、でも、貴女の様なヤバい連中も受け入れていて、」

 ここまで印具が喋った所で、突然壁の向こう、恐らく隣の個室から、「てめえ巫山戯てんじゃねえぞこの野郎!」という凄まじい怒声が漏れてきた。そのまま揉み合うような様子が聞こえてくるので、ぎょっとしていると、誰かがそこへ跫音あしおと高く駈け込んで「糞餓鬼共、静かに出来ないなら患者ごと叩き出すよ!」と女性の声で叫び込んだのである。

 これを聞いた印具は、愉しそうだった。

「あーあ、やってるやってる。と言う訳で、ちょっと時々になる場所だけど御勘弁を。ナースコールは、いつでも押せるように構えておいてね。医術的にも文字通りの意味でも、ちゃんと武装して飛んでくるから。」

 そう語る印具の看護服のポケットは、実際、何か穏やかでなさそうなもので膨らんでいた。つまり、ここはならず者の為の病棟ということか。需要というものは、なんでも満たされるのだな。

「あ、すっかり仕事かんごのこと忘れてた。」私の顔をしっかり覗き込んで来ながら、「で、すず先生、気分は大丈夫? 躰は動く? 多分、まだそこかしこが痛いと思うけど、」

「ええっと、」

 私は、懸命に上体を起こし、両腕を前へ伸ばしてみた。

 すぐに、ポテンと墜落させてしまったが、

「痛みと疲労感は凄いですけど、大丈夫そうです。」

「そう、じゃあ、無理せず横になって。」

 大人しく従った私は、

「で、どうしましたか私。とうとう、血圧でやられましたか?」

「え、……あー、憶えてない? それとも思い出せない? あ、でも私のことは憶えているんだよね? ちょっと、一応先生呼んで来ようかな。」

 印具は一旦飛び出て行こうとしたが、すぐに引き返して来、

「そう言えばさ、紗智夜さちやが、貴女が目醒めたらすぐに聯絡してくれと言ってたのだけど、していい?」

「え? ……まぁ、はい、構いませんが、」

 汐路しおじさん? 何故彼女が?

「あと、そう、弟君、ええっと、銀大ぎんた君だっけ? 彼には、どうする? 貴女、留置所から直行でここに連れられてきたから、身受けした紗智夜が特別教えてない限り、多分彼は貴女がまだ勾留されていると思っているんだけど、」

 俄に、あの馬鹿共への憤りが想起され、懸命に舌打ちは堪えたが顔を顰めてしまった。

「ああ、全部思い出しました。……ええっと、取り敢えず、銀大には一旦内緒でお願いします。」

 

 簡単な問診が終わった頃に、汐路さんは飛んで来た。或いは、とっくに到着していたものの、医者の話が終わるまで待たされていたのかもしれない。

「センセ、」

 病床の低い檻のような欄干に手を掛け、泣き出しそうな顔をする彼女へ、寝たままの私は努めて明るく、

「特に、何も無いですって。傷跡は多少残っちゃうかもしれませんけど、そこはゆくゆく形成外科とか美容外科で充分なんとか出来るでしょう、と。念の為に安静にしてますけど、主治医曰く、もう帰るなら帰っても良いくらいに、何事も無い、と。」

 見舞い相手に励まされるという逆位に気が付いたのか、汐路さんも朗らかを装おうと試みたようだったが、しかし、あまり旨くいってなかった。

「それは、せめてもの救いだけど、……本当、あの馬鹿共懲りもせず、本当、殺してやりたい。

 ……ねえ、先生、どうする? 本当に、殺してやろうかアイツら?」

 慌てて、首を振った。この動作で一瞬伸ばされた肩の辺りの皮膚が、軋むように痛む。

「よして、下さいよそんな事。……もう、そんな事なんか、しなくて良いんですから、」

 ここで、今度はノックをしてから印具が病室へ入ってきた。汐路さんも、この白衣の天使姿にすこしぎょっとしたらしく、眼鏡の向こうで少し目を見開いている。

「おっす、紗智夜ねえ。久し振り。」

 印具はそう言うと、図々しく見舞客用の椅子をどっかり占めた。

「なんか怖い顔してるけど、本当に警察嫌いなんだね。……アンタも座ったら?」

「いや、私は立ってる。」

「そう、……まぁ、いいけど、」

「それより奈津美なつみ、アンタ勤務中じゃないの?」

「今は、ちょっとくらいサボっても大丈夫。どっかからナースコール掛かったら飛んでくけどね。」

 膝を抱えながら、

「それよりも、聞かせてもらえるなら、紗智夜姐と涼先生の話を聞いておいた方が、私もスムーズに協力出来るかなって。もしも、その必要が有るならだけど、」

 汐路さんは、苛立つような有り難がるような不思議な表情を見せてから、武骨な鞄の中から何か大振りな封筒を取り出した。

「奈津美、アンタ口堅いっけ?」

「内容に依るけど、」

「センセの、つまり患者の健康に関わる話なら?」

「ああ、それなら命に懸けても秘密を守るよ。」

「じゃあ、ちょっとこれ見て。で、今の状態のセンセに知らせていい内容か判断してもらえる?」

 印具は受け取った封筒の中身を取り出すと、緩めていた口許を締め、真剣な無表情でそれをつらつら眺め始めた。

「ふぅん。」

 再び封じながら、「やめとけば? 先生の体質とか既往歴とか盗み聞いていた感じだと、なんかあまり興奮しない方が良いみたいだし、せめて、ちゃんと元気になって退院間際になったら、」

「そう、……じゃあ奈津美、その時までそれ預かっててもらえる?」

 印具は、快諾しようと一瞬表情を緩めたようだったが、しかしすぐに、また難しい相好となり、

「あー、……私、二十四時間三百六十五日この病棟で働いている訳じゃないから、つまり退院時に立ち合えるとは限らないから、請け負えないかな。だからって、こんなもの私以外の看護婦に託す訳にも行かないでしょ?」

「ああ、……しょうがないか。」

「まぁ、折衷案として、」

 印具は立ち上がると、ベッドの脇に設えられたテレヴィ台の抽斗ひきだしへ、その封筒を突っ込んだ。

「ここにしまっといて、涼先生の気力が恢復かいふくしたら勝手に取り出してもらう、ってのはどう?」

 汐路さんの反応は渋かった。

「そう、ねえ。短い間なら良いけど、あんまり長くなるとそういう保管場所じゃ不安かも、」

「あら、そう? ……じゃあ、弟君は?」

「え?」

 虚を衝かれたような反応をした汐路さんを、座り直していた印具は、背を反らしつつ見つめながら、

「だから、涼先生の弟君を見舞いに呼びつけて、彼に預けてしまえば良いのでないの?」

 これを言われた汐路さんは、自分も椅子へ座り込んで少し考えてから、

「先生、それでいい? というか、銀大君にこんな状況を話していい?」

「ええっと、……汐路さんに何か考えが有ったら、と思って銀大には一応伏していただけだったので、汐路さんが大丈夫なら、はい。寧ろ、そういう事情が無いのなら、彼には一刻も早く知らせるべきでしょうから。」

「そりゃ、そうだよね。弟、なんだから。」

 彼女は、また立ち上がった。

「じゃ、銀大君に、というかセンセの家に通話掛けて彼を喚んで来る。それで、そのまま私帰ってしまおうと思うけど、……何か私が必要なら、すぐに呼んでね、センセ。」

 去り行く彼女は平静を装おうとしていたが、その右の握り拳がふるえていたのを私は見逃さなかった。これを為した感情は恐らく忿怒であろうが、その矛先が、私を謂われ無き罪で痛めつけた警察であるにせよ、また私を護りきれずにそうさせてしまった彼女自身であるにせよ、その根拠に存在するであろう愛慕に、私は心から感謝したいと思ったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る