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 掛け付けてくれた銀大は、まず、一頻り怒ったり泣いたり私の身を案じてくれたりで騒がしかった。しかし、彼の存在は邪魔などではなく、寧ろそんな彼を姉として慰めている内に、何か、私の心の中の大事なものも恢復してきてくれたのである。他所へ何かを与えれば己がその分失うという、帳簿の数理は、心の事情に於いてはあまり通用しないようだった。

 そうして互いに元気を取り戻した私達は、その辛うじての余裕を、これから先についての議論へ費やしてしまっていた。こいつが、時期尚早だったと言うか、とにかくこじれたのである。

「とにかく、殺されるまでのことは無かったし、それに、私達の最近の裏稼業も、今回の逮捕とそもそも殆ど関係ない筈だから、大丈夫だって。私、続けたいんだよ、〝災炎の魔女〟を懲らしめてやる為に。実際、私達がこういうことを始めてからも、何度かアイツのせいらしい事件も有ったのだから、怨み辛みの為だけじゃなくて、正義の為に、どうしてもアイツを止めなきゃいけないと思うんだ、私は、」

 銀大は、どうしても肯んじない。

「説明になってない、……いや、言い訳にもなってないよ姉ちゃん! 寧ろだよ、俺達が、というか姉ちゃんが、こっそりやって来たことが何も警察にバレていないのに、それですらこんな酷い目に遭わされたんだよ! これで、もしも本当に、俺達が身に憶えの有ることで逮捕されたら、……本当に、どうなっちゃうんだよその時は! まさに、中世の〝魔女狩り〟みたいな目に遭わされるんじゃないの!?」

 汐路さんのおぞましい姿態が脳裡に甦り、返す言葉を繰り出すのに私が手間取ってしまっている内に、銀大は畳みかけて来た。

「やだよ、もう。だって、俺が、頑張れば頑張るほど、姉ちゃんをそんな目に遭わせるの為の手助けをしているようなものじゃん! 姉ちゃんは、続けのかもしれないけど、俺はやだよ、俺は、もうやめよ! こんな、魔女稼業だなんて!」

 一つの論理がしっかりと通った、灼熱の吐露だった。

 龍虎会やピースメイカーの根城で体験してきた出来事を、つまり小玉の死や駒引さんの言葉、汐路さんとの共感を、私だけが得ており、銀大にはその末節すら話していないのであったが、この非対称を、当初の私は、あまりに大きな情動を彼に背負わせずに済むと喜んでいたのだが、こうなってみると、これ以上もない厄介となってしまっている。つまり、心奥で熾火となって私の五体をどうしようもなく突き動かしている信念を、私は実弟と共有出来ていないのだ。弟は、まだ、殆ど善良な市民なのである。私の直面してきた、悪党としてのイニシエーションを経ていないのである。ならば、私が彼の心を説得しきれないのは当然であったし、また、私が彼を救えないのも、やはり当然であるのだった。共に進んできた筈だったのに、加々宮姉弟は、いつの間にか異教徒となっていた。たった二人残された家族の、姉と弟が、

 私は、無理に身と腕を延ばして、椅子に掛けている銀大の頭を撫でた。

「とにかく、退院してからゆっくり話そう? 幾らでも、時間は有るのだから。ね?」

 彼は、暫く黙った後、泣き腫らした目で此方を睨みつけつつ、

「じゃあ、今日は退散するけど、……でも、少なくとも今の俺は、嫌われてでも恨まれてでも、それこそ絶縁してでも、姉ちゃんを止めたいと思ってるよ。」

 去って行く彼は、いつもより肩をそびやかしているように見えた。

 独りになった私は、また横になって考え始めた。なんだろう。どうしてだろう。何故、こうも雁字がんじ搦めになってしまったのだろうか。未だに癒え切らぬ数多の傷が私の身をいましめているだけでなく、あまりにも多くの感情的なものが、私を身動き出来なくしていた。小玉への誠意、駒引さんへの敬意、汐路さんとの情愛、銀大との撞着、父さんと母さんへの哀惜、〝災炎の魔女〟への憎悪、警察や当局への瞋恚しんに、そしてこれから災炎の魔女が手に掛けんとしている、未来の被害者達への同情と、彼らを護らねばならぬと言う正義な衝動。これら無数の制約条件が、解の無い多元高次方程式のように私の前に聳え立っているのである。紙上の方程式であれば、解の無きことを示せばそれで花丸であろうが、この、世界に現出した問題に於いては、解無きことは絶望に他ならず、それを受け入れる訳に行かない私は、病床へ寝ころびながら変数をあっちへこっちへと動かしつつ苦しみ続けているのだった。

 

 その日一日中、そして明くる日も考え続け、いつの間にか寝入っていたらしい私が揺すられて目を開けると、赤い乗算記号を誇った耳朶がまず目に入ってきた。勤務シフトの開始から長い時間が経っているのか、纏め髪がほつれ始めて紫色が角ぐんでいる。

「よっす涼先生。飯の時間だけど、食べれる?」

「ああ印具さん、もう朝御飯ですか、」

「いや、中食ちゅうじきだけど。……大丈夫? これは、知人じゃなくて看護師として訊いてるけど、」

「あ、済みません。多分寝惚けているだけで、なんともないです。」

 塩気の足りない病院食の盆を、食台へ載せてくれる彼女へ、

「そういえば印具さん、……今更ですけど、済みませんでした。私がをお手伝いする筈だったのに、すっかり穴を開けてしまって、」

 印具は、強めに鼻で笑った。

「本当、今更だね涼先生。でも、大丈夫。弟君からちゃんと聯絡されたから、私ら二人としては受け入れたし、それに、実際にを提供されるエンドの顧客についても、万一の場合には後れたり逃したりするかもとは、契約時に重々言っておいたからね。そりゃ勝手に私達を恨むことになった奴も中には居るでしょうけど、そんなの知ったこっちゃ無し。」

 印具は、看護服の胸に刺したペンをそぞろにいじりながら、しっかり此方を見据えて、

「まあ確かに、本音を言わせてもらえば、私や針梨栖はりす姐の限られた時期が、生涯が、そう出来る筈だった命や人生を救えずに無為に過ぎてしまったことに対する、憤りのようなものはある。正直、とてもむかつく。畜生、とは思う。でも、これは涼先生なんかに向けられる恨みではなく、不運とか、警察とか、そこらへのだからね。何も気にせず、或いはどうしても気にして何かしら報いたいのなら、せめて私の仕事冥利の為に、とにかく休んでさっさと元気になって。」

 銀大が彼の仕事をちゃんとしてくれていたと言うことと、印具の気持ちの良い人柄と坦懐を聞き知り、私は快く感じた。

「じゃ、そういうわけでちゃんと平らげて栄養摂ってね。……あ、無理はしない程度に。」

 彼女が去ってから、私は手を合わせて食事を始める。小さめの雁擬きを口へ放りこみ、噛み砕くと、湧き水のように弾け出てくる豊かな水気が、怠くて水分の補給を怠りがちだった私の体を潤してくれた。咀嚼しながら膳を概観すると、入院してからやたらと顔を合わせる青菜の和え物が今日も鎮座ましましていたが、こういう青い副菜を怠らぬ食事が模範的であると言うならば、日頃の私は随分と不健康であったのだと反省させられる。銀大は、一人で、ちゃんと食べているだろうか。これまでも散々留守にしていた上に、一緒に居る時も専ら彼にりょうらせてきた私が心配するのも、お門違いだろうが。

 銀大のことがよすがとなって、ふと思いだした。彼に預けようと思っていた、汐路さんのただならぬらしい封筒、テレヴィ台の中に隠したままである。つい、箸を持ったままの手で額を打ってしまった。何やってるんだ、全く。いやでも、仕方ないだろう。あんな姉弟喧嘩を演じておいて、ちょっと頼まれてくれと言い出すのもおかしな話だろうし、そもそも、腹癒せに棄てられたり中身を見られたりしても、不思議ではなかったのだから。

 まぁ仕様がない、印具の勧告通り、退院間際かその後に中身をあらためれば良いかと、私は食事を終えてまた横になっていたのだが、どうにも気になる。色々と騒がしかったので流しかけていたが、汐路さんの言う、見ただけで私が心身を壊しかねない内容って、一体なんだ? 気になって、むずむずして来た。つい、例の抽斗の方へ目をやってしまうし、そこにただならない秘密が蔵されていると思うと、とにかくやきもきさせられる。こんな、逃げ場の無い、退屈塗まみれの生活では尚更だ。ここに置いたままには出来ないと主張した汐路さんも、案外漏洩の懸念だけではなく、こういう私の心運びの心配をしてくれていたのかもしれない。

 努めて、他のことをおもんみてやり過ごそうとしたが、どんな考え事をしてみても何らかの形で汐路さんか銀大、あるいは印具の顔が思い浮かび、すると、すぐにあの封筒のことが聯想されて私の身を焼いてきた。ああ、気になる。どうしても、気になる。この悶々をやり過ごす為にはなんでも刺戟しげきが欲しくて、例えば、喰いしん坊のように夕食はまだかと三度四度時計を見やるのだが、何度見ても十八時には遥か遠い。ああ、気になる。

 私は、決心した。うん、我慢しても身の毒だろう。もう、見てしまおう。それに、内容がそれほど真剣なら、きっとそれについて考えたりしなければならない筈で、ならば、この有り余る時間を費やした方が利口だろう。うん、そうに決まってる。そうしよう。

 意を決して封筒を開くと、中身は何枚かのプリントアウトだった。外から透けぬようにと言う気遣いなのか、最後と最初の一枚はそれぞれ白紙で、二枚目から内容が始まっている。始まっていると言っても、その二枚目の内容は緒言と言うか、本題にはまるで踏み込んでなかった。

『先生へ。まず、快気おめでとう。』

 罪悪感に眉を顰めたが、とにかく読み進めて行く。

『ここには、私が警察のシステムをクラックして盗ってきた、先生の逮捕に関した情報が抜粋されてる。言うまでもないだろうけど、他言はせず、捨てる時も用心して、出来れば燃やしてしまうように(私に丸ごと返してくれれば、一番良いのだけど、)。』

 ここらの文句は正直ぼんやり読み進めていたが、続く一文で、一気に目が醒めた。

『今回警察から引っ張ってきた情報を通じて、私は、アイツの正体を見出した気がしている。殆ど、確信してる。先生がどう思うかはまた別の話だけど、これが現時点での私の素直な感想だと、ひとまず伝えておきたい。』

 私は、三枚目からの本文を貪るように読み始めた。万が一この文書が漏れた事態を一応憚ったらしく、『アイツ』などという言辞を用いてはいるが、明らかに、この言葉は〝災炎の魔女〟を指している。私と汐路さんとで、正体を暴かねばならない人物など、それこそアイツしか居ないのだ。

 本文の冒頭からは、私の逮捕状を発行する上で関わった人間と、私のを担当した者らの情報がつらつら書き連ねられている。一瞬、何でわざわざこんなものを私に見せたのかと訝しんだが、すぐに、再会した直後の彼女の様子を思い出し、ぞっとさせられた。つまり、私が彼女の『アイツら、殺してやろうか?』という問いに対してうべなっていた場合、恐らく汐路さんはこの閻魔帳を頼りに、再び手を血に染めようとしていたのだろう。何枚も執拗に続いたそれを、私は首を振りながら読み流した。その後、具体的には殆ど最後の紙葉で、漸く話題が変わったのである。奴らが、私を逮捕した根拠についてだった。

 素直に自分の魔術の委細を都に申告して登録している私は、当然警察にもそれが通じていたようで、彼ら曰く、『災炎の魔女事件の手口については不明な点も多いが、複写魔術師であれば、いかな複雑な犯行も複写次第で可能であろう。』と言うことだったらしい。サインペンでの『頭にウジ沸いてんじゃないのコイツら』と言う書き込みは、恐らく汐路さんのものだろう。確かに、心底馬鹿馬鹿しい。が、流石にこれがメインの論拠と言う訳ではなかったらしく、つまり、細部が大筋に対して矛盾しないことを確かめた言及に過ぎないようであった。ならば当然メインが、つまり私への嫌疑の源となった事象が、有った筈で、果たして、この文書の本当に最後の方に漸くだが、しっかりと抜粋されている。

 直近五件の、災炎の魔女の仕業らしい事件の時刻や場所が並べられた表が中央寄せで据えられている。その内容を眺めてから、付された言葉、『此らの何れに於いても、またそれ以前の事例に於いても、この被疑者Wの現場不在証明は得られていない。』を読むと、確かに、これ自体は全く正しかった。噛み砕けば、発生時刻や移動時間を考慮すると、いずれの事件に於いても、私に犯行が可能であったと述べているのだ。まぁ、確かにそうではある。これら直近の五つの事件は、いずれも、私が龍虎会乃至ないしピースメイカーへ仕事に赴いていた期間に集中しており、その間都内から姿を眩ましていた私は、実際アリバイを証明することが全く不可能で、疑わしいと言えば疑わしいのだろう。これに加え、そこそこ実績の有る、つまり実力の有るらしい職業魔術師で、なのにずっと商っていた表向きの複写業が最近間遠になっていると来れば、確かに、ちょっとお招きして訊問してみるか、というロジックまでは納得出来ないこともない。肝腎の訊問があまりに粗雑で手荒なのが、とにかく頂けなく、またこの上なく憤ろしいのだが。こいつら、大して役にも立たぬくせに、

 ………………

 読み終えた私は、万一にも開封を見咎められぬよう、並び順を変えぬことを意識しながら元通り封じて抽斗へ放り込みなおした。そして、考え始めたのである。この文書で示唆されていたことと、更に、私がこれまで学んできたこと、特に龍虎会で小玉の助けを借りてそうしたこととを合わせると、確かに、汐路さんのみでなく私にも、〝災炎の魔女〟の正体が思い泛かぶのである。だが、……しかし、

 ………………

 私は、居ても立ってもいられなくなった。この生じた、燃えるような懐疑を結着させねば、ベッドの上で大人しくなど、とてもしていられない。疑団の熱に当てられた四肢が、躰全てが、動かしてくれと私を焼いてくるのだ。この心や肢体の燃ゆる様相に反し、不思議と搏動はくどうは澄みやかで、頭も、氷のように冴えていた。起き上がり、身支度を整え、堂々と扉を開け放ち、見舞客のかえさであるかのように廊下を歩き抜ける。そのまま進み続け、私は病棟を後にした。

 タクシーを少し待ち、漸く来たそれに乗り込もうとすると、慌ただしい跫音が病棟の方から響いて来た。振り返ると、何かの拍子で私の遁走に気が付いたらしい、血相を変えた印具である。

「あ、貴女、勝手に何を考えて!」

 私は、

「ちょっと、外出してきます!」

 と叫び返すと、乗り込んでドアを閉じ、

「とにかく出して下さい、一刻も早く!」

 と運転手へ命じた。歯嚙みするように震えてから発進した車輌のミラーを覗くと、後少しの所で車体に手を掛け損ねた印具が、そこに四つん這いで置き去りにされている。振り返って直にそちらを眺め続けていると、暫しそのまま茫然としていた彼女が、立ち直ったように首を振り、どこかへ通話を掛け始めた所で、タクシーが角を曲がって全ての光景が艶やかな柘植つげ垣に上書きされた。

 私は私で、掛けねばならぬ。銀大はすぐに通話へ出て、「なんだよ、」と当然のように不機嫌だったが、私は全く意に介さなかった。或いは、あまりの必死で彼との確執を忘れていたのかも知れない。

「銀大! 今から訊くこと教えて、或いは、知らなかったらすぐ調べて!」

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