29

 翌朝、煎餅蒲団のお蔭で腰が痛み、ちょっとした拍子に、あぐぉ、みたいな呻き声を出してしまう躰になった私を、その性格的に汐路は笑うかと思ったが、流石に責任を感じてか寧ろ少し申し訳なさそうだった。と言う訳で私は今、朝食後に寝そべって汐路に腰やら背中やら肩やらを揉まれている。

「うぐぇ、」

「いやぁ、腰は何をするにも大事だからね、お互い大切にしないと、」

「そう思うなら、ちゃんとお湯張って湯船に浸かった方が良いですよ。腰に効くらしいですから。」

「湯船? ……あー、うーん。何か、合わないんだよね。むず痒いと言うか、沁みると言うか、」

 今夜からあわよくばと狙ってみたが、駄目そうだなこりゃ。

 私は身を委ねながら顎を出し、つまり顔を上げて時計へ目をやって、

「ところで汐路さん、もう結構な時間ですけど、」

「え、何時?」

「八時半ですが、」

「ああ、まだ良いんじゃない。」

 不意に、汐路の手に強く力が入った。快さに、「ぐげ、」と声が漏れる。

「でも、……うぐお。ええっと、汐路さん、化粧とかもまだですよね?」

「十時前に着けば上等じゃない? 飛ばせばすぐだし、」

「そんなに、皆さん待たせていていいんですか?」

「ええっと、……まぁ、うん、行けばセンセも分かると思う。それに、世の中の出勤時間に合わせたら、エレヴェーターの待ち時間が煩わしくてしょうがなし。」

「ああ、成る程、……うぎゅぅ、」

「というか、好評だし時間も有るから続けてるけど、……正直センセの躰、揉まれる意味が有るほど苦労してなさそう。」

「あー、分かります?」

 そうなんだよなぁ、父さんと母さんを亡くしたこと以外は、というかそのことだって私や銀大の経済情況を全く脅かさず、結果金銭面ではあまり苦労せずに生きてきたから、過酷な生活って全然経験が無いんだよなぁ。例えば汐路が平気で寝起きしているこの部屋で、早速初日から気が滅入るだけでなく腰も壊しているのだから、本当に、そういう逞しさが私には足りてない。こういう潔癖というか温室育ちで、今後も苦労してしまうかもなあ。

 もともと凝ってもいない私の背中や腰が満遍なく温まった所で、飽きたのか汐路は手を止めた。

 私は、身も起こさぬまま、

「あー、有り難う御座いました。汐路さんにもお返ししましょうか?」

「いや、流石に複写魔術師をお喚びしてそんな事させるの悪いから大丈夫。必要ならプロのマッサージ屋頼むか、或いはカレンか安辺辺りに揉ませるから御心配なく。」

 爪の垢煎じて駒引に出してやりたいな。

「ところでセンセ。道具とか持って来てないみたいだけど、貴女の身繕いの方は、」

「あー、お化粧ですか。……ちゃんと覚えないと行けないんでしょうけど、なかなか、」

 汐路は、明らかにわざと私に聞こえるように溜め息をし、

「若いって、いいねえ。」

 と一つ吐いてから自分の化粧箱へ手を伸ばした。


 その後はまた汐路へ必死にしがみついて、例のビルまでやって来た。こう御立派なバイクで毎度送迎してくれるのなら、私の愛機をビルから遥かに遠い粗末な所に停めさせたのは全く理に適っていたんだな一応、と、二人きりのエレヴェーターで感心している内にくだんの階に着き、そして、例の目隠しを被される。

 その後、秘密基地部屋まで着いてようやく視界を解放されると、私達、というか汐路は今日も最後入りだったのだが、出迎えてくれたのは例の加連川のみであった。

 彼女はニヤニヤ笑いながら、片手を上げてこっちに振りつつ、

「あら紗智夜、貴女にしては早いじゃない。」

「センセを巻き込むから、たまには真人間らしい生活リズムにしましょって、思ってね。」

「その割には、遅いけど、」

「だって、あんまり早く来てもどうせそいつら起きてないでしょ?」

「まあ、然り。」

 例の三人組の中の小道世と呼ばれていた男は、部屋の端っこに椅子を並べた上へ寝ころんで高鼾を搔いていた。陣内は、作業中に力尽きたかのように机へ向かって突っ伏している。そして安辺は、丁度汐路と加連川が話している最中に、私の知らないドアから、わしゃわしゃ濡れた髪を拭きながら下の下着だけのあられも無い恰好で入って来たのであった。

「あれ、ボスじゃん。早いね。」

「ボスじゃん、じゃないんだよこのすっとこどっこい! アンタなんて恰好してんの、」

「は? 別に今更でしょ、」

「先生が居るでしょうが、この馬鹿!」

 こう言われた安辺は、気が付いたような顔をして私を視線で探し、そのちょっと見開いた目を露骨にこちらと合わせた。

「こりゃ、失礼。加々宮先生、アンタのこと完全に忘れてたよ。」

 などと言いながら、椅子に掛けていたシャツを身に纏い始める。その腹筋は、油絵の具で描いたように綺麗に割れていて、また、躰の残りの部分も岩乗がんじょうそうに引き締まっており、銀大の様に若く、かつ彼の様に優男然としていた安辺の印象が、後者に関してはすっかり覆された。彼が服を着おおせてからも、私の脳裡に残った筋肉の影の形が、安辺の挙止の一々に何かただならないものを勝手に想像させてくる。

「で、安辺、アンタも今所?」

「んな訳ないじゃんボス、今んだよ。」

「ま、だろうね。……ねえ、カレン、買出し行ってきてもらえる? コイツらの分の、朝昼兼用分の餌と、私とセンセの軽食。その間に、小道世と陣内叩き起こして臨戦態勢にさせておくからさ。」

「はいはい。」

 

 そんなこんなで、お湯で解く安っぽいコーンポタージュを振る舞われた私は、甘ったるいそれをちびちび啜りながら、ピースメイカーのランチョンミーティングを聞かされることになったのである。まだ十時過ぎの食事をランチョンと呼んでいいのかは微妙だし、そもそも、この放埒なものをミーティングと呼んでいいのかも、また謎だが。

「ええっと、それで各位、昨日私が帰ってから何してた?」

「はいはいはい、ボス!」

 私へ与えた厳かなイメージをさっそく裏切り、明らかに巫山戯て元気に手を挙げる安辺へ、

「ほい、何?」

「そもそも紗智夜姫様は昨日一瞬しか居なかったんだから、帰った後と言うか、丸一日の成果聞かなきゃ駄目じゃない?」

 汐路は一旦脣を尖らせ、それから、

「へえ。たまにはまともなこというじゃない、安辺。」

「次は四半世紀くらい先になるだろうから、乞う御期待。」

「それまでには引退したい気もするけどねぇ。で、じゃあとにかく、昨日の成果話してよ皆。まずは、小道世からかな。」

「いつも思うんだけどよ、毎朝話さないと駄目かね。」

「何言ってんの小道世。こんな上等な遊び場用意してあげてんだから、何をしていたのかくらい教えなさいって。別に、何も無いなら何も無いでいいけど、時々なら、」

「んー、じゃあ俺は何も無かったかな。流行りのコロネルのソース追って脆弱性探ってみたけど、まだ大した物は無くてよ、」

「つまり、何も無かったんじゃなくて、『コロネルの脆弱性は、どこそこには無さそう』って知見を得はしたんでしょ? ならば良し。もしも面白そうなら、今日からも是非探って頂戴な。

 で、陣内は?」

「主には、ゾンビ搔き集めて世話焼いてたかな。近々必要なんだろ、確か?」

「あら、今何台動かせる?」

「四十五万くらいかな。」

「素晴らしい! 暫くは足りそうじゃない。

 で、そしたら昨日の安辺は?」

「Jで、エクスプロイトスクリプト書いてたよん。いけると思うけど、後で一応ボスもレビューしてね。」

「そりゃさせていただくけど、何に対してのだっけ?」

「スプレット2、というか未だにそれ使ってるという、業界の最先端を行く素晴らしい意識を持った、割鳴銀行様の信託申し込みサイト。」

「あー、あれかー。あの、皆で目を剥いたやつ。」

「やばいよねあれ、俺貯金全額下ろしたよ。」

「無いものをどうやって下ろしたのか、後で是非聞かせて。」

 何言ってんのか全然分からんなコイツら、なんなんだそのカタカナ語の微妙な多さは。と言うかゾンビってなんだゾンビって。

 ちゃっかり自分の分も買い込んで来ていた加連川は、ぼてっとしたクリームの乗ったプディングを突きながら、

「サチコ、私も報告しとく?」

「ん? いや、別に普段通り、野郎共に聞かせる意味も無いから後で私にだけ言ってくれればいいけど、どうかした?」

「今日は先生が居るから何か違うかもなって、一応確認しただけ。」

「あー、うん。大丈夫、いつも通りで。

 で、ええっとそしたら、他に何か喋りたかったり訊きたいこと有ったり奴居る? センセ以外で。」

「ほいほい、」とまた手を挙げる安辺。

「はい、そこの露出狂。」

「うわ、ひでえ。」

「紗智夜国憲法第十四条。訳も無くパンツ一丁で職場を徘徊する者、此に人権を与えない。」

「いや、訳有るかもしれないじゃん。適当な頻度で躰を晒すことで、俺らみたいな連中に特有の運動不足を抑止して健康な生活を送りましょう、みたいな、」

「どっか場末でやって。で、何?」

「いや、さっきの話で思い出したんだけど、ボスが最近ずっと一生懸命書いている方の攻撃コードって、仕上がったの?」

 自分の汁物――滑子なめこのカップ味噌汁――に口を付けようとしていた汐路は、それを中止し、そうして空いた手で自分の頭をぽりぽりと搔いて見せた。湯気で曇った眼鏡の奥で、目を安辺から逸らしているらしい。

「あー、うーん。もうちょっとって感じ、かな?」

「それ、こないだも聞いた。なんか面倒だから、俺に寄越してくれない? いや、小道世でも陣内のオッサンでも良いけどさ。だって、ボスって特に苦手でしょ、バッファーオーバーフローとかポインターとかの低級の話。」

「いや、でも、……うーん。御免、これだけは私が自分で完成させたいんだ。」

「でも、良く分かんないけど、加々宮先生の居る間に結着させないと駄目なんでしょ?」

 ……んあ?

「んー、そうだね。そうなんだけど、……あー、どうしよ。冷静に考えると、先生に色々教えないといけないから、自分でプログラム書いてる時間あんま無いじゃん私。でも、私じゃなきゃ先生に教えらんないし、それに、だからって夜あんまりここに残る訳にも、」

「だから寄越しなってボス、妙な意地張ってないでさ。」

「うーん。……でも、こればかりは、」

「ええっと、」私は、おずおずと発言した。「もしかして汐路さん、私を気遣って早く帰らないといけないから、困ったりしてます?」

 思い出したかのように此方へ視線を向ける汐路へ、私は、

「ええっと、別に構いませんよ私は。付き合いますよ、汐路さんが頑張るならその間ずっとここで。」

 お金貰うのだからクライアントの業務(?)を滞らせる訳にはいかない、と言っておけば聞こえが良いのだろうが、あんな部屋に戻されるくらいならこの小奇麗な秘密基地に居させてもらう方が、正直ずっとマシだった。安辺の様子からすると、なんかシャワーか何は有るっぽいし。

 汐路は、申し訳なさそうな顔で、

「センセ、本当に言ってる?」

「はい。」

 そうだっつってんだろ。

「そ。」

 彼女はそれだけ言うと立ち上がり、景気良く手を短く打ち鳴らした。

「はい、じゃあ今日のミーティング終了! 各自喰い終わったら、作業開始ってことで!」

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