49

 私は、見慣れぬ病院個室で目を醒ました。……ちょっと待て、だと? どうした、何故だ? 私は、矢田野の娘に、……すずに、撃たれて、

「あ、気が付いた?」

 寝起きで視界が霞むのを、目を搾って埋め合わせると、その声の方向に看護婦が一人居て、すぐに、こちらの顔を覗き込めるくらいに近くまでやって来た。

「御気分は、どう?」

「ええっと、はい、悪くはないです。痛い所とかも、特には、」

 私は、病床の上からそう返事しながらも、右腕の実体感に不安を感じていた。以前何かで読んだ記事を、思い出していた為である。部位を欠損した者の脳は時々、もうそこに無い筈のもののを本気で誤認してしまい、それによって痛みやその他の障碍が起こったりすることがあると言う、

「そう、」突然、声が低くなる。「残念ね、たっぷり苦しんでいてくれた方が、こちらとしては夢見が良くなったでしょうに。」

 突然向けられた蔑みに私が耳を疑うと、ぼやけていた視界が漸くまともになってきてくれた。そこで捕らえたのは、成る程、私に向かってスタンガンを振り回して来たあの女である。殴り抜けてやった辺りに、化粧で隠しきれていない青痣が仄見えていた。

 寝たままの私は、つい鼻で笑ってしまってから、

「アンタ、ホントに看護師だったの?」

 あか十字のピアスが、返事の代わりのように耳朶で煌めいている。胸の札には、「印具いんぐ」と書かれていた。

「皆そう言うね、こんなに頑張ってお仕事してるのにさ。」

「私が元気なのも、そのお蔭なのかしら。……アンタこそ、雨の中あんな不様にぶっ倒れて、風邪引かなかった?」

「生意気な患者だね。助けてやって腹が立つのって、初めてかも。

 まぁとにかく、そんなに元気なら、右腕動かせる?」

 は?

「何、言ってんのよアンタ、」

「いや、だからさ、」

 シーツがん剝かれ、その後印具に左頰を押された。相当な覚悟が必要であった筈の、右腕が有った場所の確認を、そうやって突如強いられた訳だが、私は、毒気を抜かれてしまう。そこに、有るのだ。患者衣の短い袖から伸びている、右腕が。

「どう、動く?」

 そう促され、肘を折って下膊を持ち上げようとしたが、まるで肩から先だけが熱病に冒されたように、びて動かない。それでもなんとか、顔を顰めつつ力を入れると、芽生えた双葉が顔を上げる様な緩慢さで、私の手は垂直まで持ち上がった。「へえ、」と呟く印具を無視しながら、そのまま、右手を顔の前まで持って来て、私は漸く、自分の手がドーパミン欠乏性振顫病患者のように、絶え間なく戦慄わなないていることに気が付いたのである。ぞっとした。この顫えを、私は目で見るまで知覚出来なかったのだ。

「出来る? グーパー、」

 私への軽蔑が職業意識に飲み込まれ始めたのか、印具はただ柔和に、自分でも拳を開きつ閉じつしながらそう問うてきた。私は、言われるがまま試みてみたが、これもまた、開花と窄花のように、ゆるゆるとした動作にしかならなかったのである。

「うん、取り敢えず動いているね。上等上等。」

 重い右腕を、蔓を放つようにベッドの上へ放ってしまってから、私はこの馴れ馴れしい看護師の方を見つつ、

「なんで、付いてるのよ。右腕、」

「頑張って、治療させていただきましたのでね。」

「いや、それにしても、……腕はともかく、私の右肩は、あの子に撃ち抜かれて消し飛んだ筈じゃ、」

「あー、……それなのだけど、」

 ずっと此方を覗き込んでいた印具は、ここで背筋を伸ばしつつ私から目を背け、何ごとか考え始めたようだった。そうしてあらわになった、純白な看護服の衣嚢に収められ、黒々とした姿を透かしているスタンガンと、目を細め何かを企んでいるような顔つきは、取ってつけたように載せられた看護帽と反撥しており、この女が、尋常な看護師と、魔女たるそれとの二重生活を綿々とこなしてみせる狡猾さを備えているらしいことを、私に感じさせてくる。

 結局、印具は此方を見ぬまま一歩進んだ。

「ちょっと、待ってなさい。呼んで来ちゃうから。」

 去って行くその白い背を見ながら、私は、執刀医を呼びつけるのだろうと思っていた。老い果てたかのような有り様とはいえ、一応は私の右手を動かせるようにした奇蹟な施術を果たした杏林きょうりんを、この目で見てみたいとも感じていたので、少し楽しみにしながら私は目を閉じたのである。すると、自分でも気が付かぬ疲労が溜まっていたのか、私は切り落とされるように意識を失った。

 

「起きれる?」

 印具の声だ。懸命に気力を籠めることで目を開けた私は、医者と会えることを期待していたのだが、しかし、実際には不逞の輩が立ち並んでいたのである。印具――こいつは仕方ないのだが――と、コートの袖口からメイド服の飾りがみでている仏頂面の女と、定規のように正確に直角なレンズの眼鏡を掛けた女とが、三人で此方を覗き込んでいた。つまり、あの雨の中、私を散々痛めつけてくれた連中だ。

 私は、悪態をく為に上体を起こし始めた。「ちょっと、まだ無理は、」と心配してくる印具を無視しつつそうしようとしたのだが、いつもの癖で利き腕を支えにしたのでしくじり、仏頂面の女の方に助けられてしまう。この行き届きは、確かに使用人の衣装に似つかわしいものだったが、しかし、〝雨女〟たる魔術師が、虎川が、これほど卑俗な技巧を身に付けているものだろうか。私は、昨夜の自分の考えを訝しみ始め、そしてそうして生じた隙間に、訳の分からぬ自然な驟雨に打たれた不幸への呪詛を埋め込んだ。

「どーも、」と一応述べてから、続けて何を言ってやろうかと皮肉を練る私は、材料を求めて周囲を見回したのだが、ぎょっとした。もう一人、見舞客が居たのである。

 彼女は、隅の椅子から立ち上がり、何かしらの勇気を振り絞って此方へ来た。見慣れた筈の、愛らしい笑顔が、今は何故か少し違って見える。

鎗田そうださん、……御気分は、どうですか?」

「涼、」

 印具が、溜め息を吐いて来た。

「感謝なさいよ。アンタ達が後でどう清算するのかまでは知らないけど、少なくとも一旦は、この涼先生が、アンタの右腕繫げるために掛かった馬鹿みたいな費用出してくれたり、その他尽力したんだから。」

「そんな、私は、ただお願いしただけですよ。本当に救って下さったのは、」

「ちょっと涼先生、余計なこと言うの止めて。」

 何故か焦って涼の言葉にさしはさまった印具は、もしかすると、この奇蹟のような治療に何か無法に関わったのだろうか。すると、私の右腕は、魔女に助けられたと言うことになる。五体満足であると言う、好もしい救いの実感に、言い知れぬ嫌悪が混入してきた。

「で、鎗田さん。」矢田野の娘は、私の右方から、縁に手を置くほどベッドへ近付いてきて、「右手、何とか動く程度と聞いてましたけど、」

 私は、不如意に顫えている手を見られているのが恥ずかしくなって、咄嗟に隠そうとしたのだが、意志の通らないそれは、風に薙がれた下枝しずえのように少し揺れただけだった。

「そう、だけど、」

 私の返事は、曖昧だった。あれ程憎しみを叩き付け合った相手である彼女が、大枚はたいて私を助けてくれ、更にはこうして莞爾かんじとして見つめてくれている情況というのが、全く想像出来なかったのである。

「じゃあ、……魔術なんて、振るえませんよね。」

 私は、涼の言葉にはっとして周囲の炭酸瓦斯を右手へ集めようとしたが、まるで、能わなかった。貧困な町絵師がちびた絵の具チューブを絞るように必死に、真剣に、魔力を右手へ通そうとするのだが、肩の辺りからまるで先へ通じてくれない。壁が有る、というよりは、行き止まりばかりの隘路あいろに迷い込まされるかのようだった。

 私は、この不具により、私のこれまでの人生で追ってきた耀かがやきを、そして私の存在意義を喪失し、深い絶望を得たのだが、しかし、この絶望は絶対に誰にも、特に、今この場に居る連中には、死んでも悟られたくなかった。

 そこで、妙な譫言うわごとが、纏まらぬままに口から飛び出たのである。

「そう、ね。おめでとう、涼ちゃん。貴女の目的は、何らかの形では達成されたのだわ。『そのままにしてはおけない、』という、貴女の叫びは、……ふふ、こうして成就した。」

 この言葉の、何処までが皮肉で何処までが本当の祝福なのか、自分でも良く分からなかったが、とにかく、その輪郭は虚勢だった。

 私の店の看板娘だった彼女は、その愛想へ一瞬、何か悲しげなものをしるく滲ませたが、努めて朗らかを装おうと、すぐにまた、暗いものを残しながらも相好を崩した。そこから、どんな言葉を投じてくるのかと私が待ち構えていると、彼女は、矢庭に私の右手を摑んだのである。

 右手と右手の五指が、絡められた。

「ちょっと、」

 驚いた私は、しかし、払おうと腕を振ることも出来ず、また、あの時のように彼女の手を握り潰すことも出来ず、ただ、まともに動かない躰を呪いながら、腕を上ってくる彼女の魔力の感覚が、肩を経て、私の胸、彼女が射貫き損ねた場所へ到達するのを、聴診器を当てられる結核患者のように、されるがままぼんやりと待つしか出来なかったのである。

 いつもより遥かに時間の掛かった、その旅路を終えると、彼女は手を放し、

「どうでしょう、鎗田さん。」

 私は、頰杖として、自分の顴骨かんこつを指先で支えながら首を傾げつつ、

「どうでしょう、って、何が?」

 突如、小さい歓声が沸いた。この突拍子もない欣然に私が肝を潰され、目の動きだけで周囲を見渡すと、私を見下ろす四人共が揃って少し目を瞠り、印具にいたっては、口に手を当てて好もしい驚きを表明している。

「なに、アンタら、」

「鎗田さん、手、……右手!」

 この涼の声で、私も漸く気が付き、傾いでいた首をぎょっと起こした。そう。右利きの私は、自然と、右腕で頰を支えていたのだ。恰も、何でもないことのように、自在にそれを動かして。

 私は、顫えていない自分の右手をじっと見つめた。そして、その後、皮膚が張りつめて痛くなるほど開き、続けて、血が噴き出そうなくらいの全力で握りしめる。ほどいた後、親指をそれ以外の指を一本ずつくっつけてみたり、何か手妻を演ずる奇術師のように気取って踊らせてみたり、色々動かしてみるのだが、いずれも、完全だった。他人のようだった私の手は、私の手になっていた。魔力を、放つ。萩色の瓦斯が、私の手の窪みへ、重力に従うかのように滴って溜まった。

 言葉を失った空間を裂いたのは、印具で、職業柄、このような輝かし過ぎる空気を冷却して日常へ引き戻すのに慣れているのかもしれなかった。

「正確には、主治医と言うか執刀医に訊いて欲しいけど、とにかく私の分かる限りで説明すると、肩の組織を丸ごと移植されたアンタは、肉体的には完全に戻ってる。そこは、先生が保証してた。でも、魔術的と言うか、非物質的なことについては、どんな外科医でもどうしようもない。つまり、他人の肉が挟まったアンタは、どんなに神経を上手く繫げられても、魔力を人並みに通しきることが出来ないんだ。だから、さっきまでみたいにまともに力も入らないし、痙攣もしてしまう。

 でも、つまり、魔力が通らないのが問題なのなら、そう、なんとかして、正しい道を通じ直してしまえばいい。例えば、……右手から遡って、アンタの魔力中枢まで、誰かの魔力が正確な経路で迸ってしまえば、その影響の残っている間は、理論上は右腕の機能が恢復する筈だった。」

 私は、右手から視線を引き剥がし、涼の方を見やった。彼女は、身に充溢する喜びを、抑えきれぬと言う様子で、

「分かります、鎗田さん? つまり、貴女の魔術を何度も何度も何度も何度も複写してきて、貴女の右手から胸への元々の経路を知悉した私は、出来る限りそれを再現する航路を選んで、複写を行うことが出来るんです。こうして通された、魔力の隧道は、時間が経つと塞がっちゃうみたいですけど、でも、その度に私は、貴女を複写し直すことが出来る。

 分かりますか、鎗田さん。私の、下手な射撃は、貴女の右肩を貫いて爆ぜさせた訳ですけど、でも、なんとか伝手を辿って移植してきてもらうことが出来たんです。普通じゃ、絶対に不可能な、筋肉や骨や神経の移植術に、頼ることが出来たんです。そして、その挙句、貴女はこうなりました。私達は、こうなりました。世界で、私だけが、貴女の右腕と、貴女の魔術を姑息的にでも復活させることが出来るんです。鎗田さん、私は、これは、これこそが、何もかもを互いに知ってしまった後でも、私と貴女が絆を得ることが出来る、殆ど唯一の情況だったと思うんですよ。私は、貴女の〝災炎の魔女〟たる力を奪うことが出来たのに、つまりもう二度と、貴女は私の知らない所で暴力を行使することが出来ないのに、でも、私達は、屋台で肩を並べて一緒にフロートを売ることは出来るんです。これは最早、……奇蹟、じゃないですか?」

 涼は、最早泣いていた。ベッドのシーツを握りしめて巻き込みながら、その手をふるわせ、白い布地を波立たせている。

「私の信心って、父さんや母さんと同じ日に殺されたんですけど、でも私、どこか、命運みたいなのは疑いきれていなかったんです。神なる存在やそれに縋るのは、唾棄すべきで、私達は私達の生き方や正義を、私達自身の勇気と感情で選ぶべきだとは思うんですけども、でも、何かしらで報いてくれたり救ってくれたりする、大きな、命運のようなものは、もしかしたら有っても良いのかと、心の何処かで思っていたんです。鎗田さん、私、今、本当に感動しているんですよ。そんな命運が、巧んでくれて、こんな奇蹟のような結果をもたらしてくれたと、信じてやまないんです。」

 彼女が、もう一度右手を伸ばしてきた。

「鎗田さん。……先日、断った手前本当に不躾なんですけど、でも、お願い出来ませんか? 私、貴女のお店で、平和に暮らしてきたいんです。確かに一度は、覚悟していたのに、父さんと母さんへの気持ちとか、他あらゆるもののしがらみを解決する為には、何をしても貴女を討たねばならぬと、思い詰めていたのに、……でも、こんな奇蹟が起こってしまうと、どうしても、それに縋りたくなってしまうんです。鎗田さん、……お願い、出来ますか?」

 私は、身を乗り出して、彼女の濡れた頰を右手で触れた。肉は暖かく、涙は冷たい。そのまま少し撫でると、きついくらいの瑞々しい肌へ、涙滴が苦労しながら沁み込んで行った。この感触を暫し味わってから、一度手を引いて、彼女の顔を良く見据える。

 そして、全力でその頰を張った。

 

 良い音が、病室に響く。

 ざわついた空気の中で、慄々わなわなと、赤くなった頰を手で庇おうとする彼女へ、

「本当に、有り難う涼ちゃん。本当に、感謝してる。……でも、駄目なの。駄目、なのよ。今は、この瞬間は、非日常的な法悦で貴女の心が覆われ、細かいことを糊塗ことしてしまっているのだろうけど、でも、……きっと駄目。私へ一度刃を向けることになった、怒りは、貴女の父母への想いは、きっと、冷めない。きっと、いつか、……また私を殺したくなる。

 だから、私は、こうして私達がいがみ合わずに済んでいる内に、貴女の許を去らねばならない。そして、そうする以上、私もやはり、魔女に身をやつした女を、尊敬し続けることは難しい。……本当に、御免なさい。」

 涼は、少し茫然とした後に、子供のように泣きじゃくり始めた。

「そう、ですよね。そうなんですよね。そんな、気はしてたんです。でも、あまりに奇蹟が重なったから、なんとかなってしまわないかと、望んでしまった、希望を抱いてしまったんですけど、」

 彼女は、膝から崩れ落ち、腕と顔をベッドへ突っ伏して呻き続けた。

「ちょっとさ、何なのアンタ!」

 叫び掛けてきたのは、眼鏡の女である。

「センセからざっと聞いたよ、。アンタが実はどんな女だったのかって。だから、多少事情が複雑なのは分かるけど、でも、駄目な訳? ここでにっこり、センセを受け入れちゃさ。政府相手に何も後腐れ無く引退出来ると、聞いていたけど?」

 これは確かに事実で、私が辞意を示せば、殺されて当然な奴が適当にスケープゴートとして逮捕され、私の代わりに吊られると約束されている。

 だが、

「確かに、一応はそう。何も、柵が無ければ、この瞬間だけが真空に浮いているなら、勿論私もそうしたいけど、でも、事態はそう簡単じゃない。涼の抱えているものと、私の抱えて来たものは、どうやったって相容られない。……私達が、互いに互いのそれを知らなければ、まだ良かったでしょうけど、」

「理解出来ない! その、『抱えているもの』とやらは、センセとかアンタの素直な気持ちよりも大事な訳?」

「大事に決まっているでしょ!」私も、荒げてしまった。「私が、どれだけ、殺めて来たと思っている? 死んで当然の奴らばかりだったとは言え、私が、どれだけ、殺して来たと思っている? 社会の為に死すべき奴は死すべきと、正義を執行してきた私が、今さらとなって、魔女として働きアンタらのような魔女に通じてもいる女と、つまり涼と、和解してしまっては、これまで奪ってきた命に、どう言い訳をすれば良いと言うの?」

 眼鏡の女は、私をますます睨みつけたが、その後、力なく目を伏して首を振った。

「分からない、本当に分からない。……センセといいアンタといい、普通に生きてりゃ良いのに、普通に生きられる奴は、普通に生きていればいいのに、しかも、悦楽の為でもなく、なんで正義とかいう訳の分からないものの為に、そこまで全てを犠牲に出来る? もう、ホント意味分かんない、」

 罪無き市民を貴様等から護る為だ、と私は吠えても良かったが、どうも、この女が嘆いているのはそういう意味でないらしいと、一旦口を噤んだ。不思議な、女だった。どうせ魔女として散々好き勝手過ごして来たのだろうに、人生は普通に生き延びられれば上等だろうと言う、志の低さと言うか、殆ど虚無主義な観念を感じさせてくる。そう言うのならば、何故この女は、市民から魔女へ、つまり、普通から放恣へ敢えて踏み外れたのだろう。

 ここで、印具が身を乗り出してきた。病棟ではあまりに非常識なこの騒ぎがついにたしなめられるかと思ったが、そうではないようである。つまりその顔に浮かんでいたのは、苛立ちや毅然ではなく、実直そうな心配だった。

「ねえ。涼先生、大丈夫?」

 この言葉で、私達が涼の方へ視線をやると、彼女は未だベッドへ顔を伏したままふるえていたのだが、しかし、当初は歔欷きょきによるものだったそれとは、何やら性質が変わっていた。最早、顫えは情動にっているのではなく、純に肉体の仕組みに要求されているのだと、つまり、彼女が嘔吐を繰り返しているのだと、シーツに染み始めた黄色い吐瀉物とその酸な臭いによって知れたのだ。

 印具が、たじろいでいた眼鏡の女を腕で押しのけ、涼の元にやって来る。

「ちょっと、本当に大丈夫?」

「御免なさい、汚して、……なんか、頭凄く痛くて、」

 この言葉を最後に彼女は躰を支えきれなくなり、床へ倒れた。身をしたたかに打ち付けながらも、呻き声も上げなければ手で押さえたりもしない様子と、人形のように見開かれたままの目が、涼が意識を喪失していることをてんと物語っている。

 彼女に代わって悲鳴を上げるかのように、部屋の中が騒ついた。

 そんな中で、印具は見事な逐電ちくてんを見せた。いつの間にか病室の扉を少し開け、たまたまそこを通っていたらしい同僚を捕まえて何やら細々こまごまと指示していたのである。その後、此方に振り返ってきた彼女の顔は、戦場の伝令使のように精悍だった。

紗智夜さちやねえ銀大ぎんた君の聯絡先教えて!」

「一体、どうした、」

「肉親の同意が必要、……もしかしたら、開頭手術になる!」

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