35

 竦んだ小道世に先導されつつ、私は無事エレヴェーター前まで辿り着いたが、そこには、さっき小耳に挟んだ通り本当に安辺が待っていた。座り込んでいた彼は、それによる凝りを解すように二三度屈伸をしてから、立ちはだかり、それが彼なりの構えらしく、楽に腕を惑わせながらやや内股気味にして踵を浮かせて見せる。その、綽然と綿密が同居した所作は、彼が尋常な市民でないことを如実に物語っていた。

「なんだよおっさん、恰好悪いことしてんな。」

「いや、安辺。もう駄目だって。カレンの能力複写されたんだ。」

「へえ。成る程、そりゃ大変だ。」

 安辺は私の方へ、その、若い顔の上のしたりげな瞳を向けつつ、

「でもさぁ、先生。アンタ、知ってんの? カレン姫の魔術について、なんか、」

 私は、図星を顔に出さないように気をつけながら、

「無論、私は複写のプロですから。」

 複写した時点で委細が分かるのさ、という言外の虚勢を籠めてみたが、

「うーん。」安辺は、穿き物のポケットから何か棒状なものを取り出しつつ、「微妙だなぁ、分かんないなぁ。先生が正直なこと言ってんのか、それとも、ここを切り抜ける為に適当な強言こわごと言っているのか、」

「おい安辺、馬鹿な事止せって。もしも本当にカレンの魔術を振るわれたら、お前、」

「いや逆でしょ。今、気をつけなきゃいけない『もしも』は、そっちじゃない。」

 俄に顔を曇らせた安辺は、一つ息を吐いてから、

「もしも先生が今嘘を言っていて、そのせいでまんまと取り逃したら、俺、今後悔やんでも悔やみきれないよ。だって、おっさん、もう俺達はお終いなんだよ?」

 燠火から裸火が目醒めるように、言葉が進む程にその温度が上がっていく。

「『俺達』ってのは、つまり『ピースメイカー』がってことだけど、これだけ騒いだら、もう俺らは紗智夜と一緒になんか過ごせない。もう、お終いなんだ。これまでを、全部失ってしまったんだよ俺達は。分かってんのかよ、おっさん! もう、これまでの居場所もこれまでに積み上げてきたものも、俺達は全部ベットして抛ってしまった後なんだよ!」

 軽薄の権化のようであった安辺が、今ばかりは、その張った勢いで嗄れた声へ、血潮のような滾りを託してきていた。

「なら、俺はここでみすみす逃せなんか出来ない。それこそ命に代えてでも、先生を止めて見せるよ。」

 安辺が、手首を捻るようにすると、その棒状の物体が展開されて真の姿を現した。バタフライ式の、ナックルナイフ。刃渡り5インチと見られるそれは、ブレード・タウン社の人気商品にも見えるが、あまり自信は無かった。いずれにせよ、明らかに違法なものである。

「さあ、先生。大人しく部屋に戻ってもらえるかな。さもないと、」

 淀みなかった展開アクションの手際からするに、安辺はそれなりにナイフの扱いに慣れているようであった。つまり、私側の武器、加連川の魔術が、仕様の分からずに使えぬ竹光である以上、今この場で武器を抱えているのは、彼のみなのだ。

 しかし、折れてしまっては全てを失う私は、

「さもないと、なんですか?」

 そう、虚勢を張るしかなかったのである。

 安辺は、笑った。若々しい、諧謔を楽しむ無邪気と、人道に悖ることをたのしむ兇猛とが、複雑に入り交じって諧和した、若き悪党の笑顔だ。

「いや、凄いね先生。その減らず口、……一発斬り付けてやったら少しは黙るのかな!?」

 得物を右手に、駈け込んで来る。血の気が引くが、それどころではない。生き残る為に、行動せねばならない。

 取り敢えず、少し前に居た小道世の身を摑み、前へ押しやる。これによって安辺が已むなく身を翻す隙に稼げた時間で、大急ぎで考え始めた。何故だ。ナイフを振り回されれば、大抵の魔術師はどうしようもない。つまり基本的に右手で対象へ触れればならぬ以上、いかに致命的な魔術を所持していても、そんな情況では行使の仕様が無いのだが、しかし、彼らは懼れていた。小道世はともかく安辺まで、私が加連川の魔術を使用することを懼れていたのだ。……ならば、恐らく、加連川の魔術の性質は!

 遮二無二に、開いた右手を安辺の方へ翳す。つい、その血走る目を視界から隠してしまうが、本意はそこではなく、私は、私の胸から肩を経て右手へ、稲光のような形状で迸っている種々の魔力の経路の内、私の知らないもの、へ精神を集中した。その、未だ何も通ったことの無い処女道へ、有らん限りの魔力を注ぎ込み、岩盤を砕く清冽な湧き水のように押し通らせ、加連川の魔術を、その正体も分からぬままに発現させる!

 私の期待通りに、加連川の魔術に乗った魔力は、手の平で行き場を失ってわだかまるようなことはなく、如意に放散されて遺憾なく安辺へ浴びせかかった。私は、賭けに勝ったのだ。

 私の魔力を諸に浴びた筈の安辺は、その振り上げていたナイフによって、躰ごと私へ崩れ込んで来るような捨て身で斬りかかって来、その果敢と威勢に戦いた私は、彼が未だに交戦能力を失っていないことに絶望したが、しかし、これは完全に誤解だった。つまり彼は、勢い良く身を投じて斬りかかって来たと言うよりも、ナイフを持ったまま純粋に倒れ込んだのである。

 前向きに倒れたまま、電流を全身へ流される咎人のように、関節と言う関節を強く痙攣させ始めた安辺は、そのあまりの激しさに、海老のように身を撥ねさせてしまって仰向けになった。そうやってひっくり返ってからも痙攣は止むことなく、壊れた撥条玩具の如く身を弾けさせ続けている。その悲惨な運動と、痛ましく見開かれた目とが、釣り上げられて死に逝く魚を思わせた。

 思わずたじろいで身を引いた私を、安辺は、その皿のように瞠った目で見つめながら、呼吸もままならないらしく左手で自分の首の辺りを押さえつつ、もう片方の手を何へともなく差し伸べている。恐らくは何かへの救いを求めているのだろうが、その所作すらも酷い痙攣によって妨害されている様は、日頃は不信の者であろう彼へ、神なる者が無情に報いを与えているかのようであった。

 その口から声にもならぬ喘ぎとあぶくとが吐き出される様を、竦みつくした私と小道世が奇妙に感情を共有しつつ見つめていると、ふいに、エレヴェーターのブザーが鳴った。扉が開ききるのを待ちきれぬ様子で血相を変えた女が飛び出て来、そのしかつめらしい眼鏡のレンズを煌めかせる。

「先生、大丈夫!?」

 騙されたことを何かで察していたらしく、見つけた私のことを開口一番案じた汐路であったが、寧ろ足許に、明らかに死へ瀕した安辺が転がっているのに気が付いてそこへ屈み寄った。ボス、とでも発そうとしたらしい彼を、

「舌噛むよ、黙ってな!」

 と一蹴し、心臓マッサージでも始めるかのように、右手を下にして重ねた両手を、有らん限りの勢いで安辺の胸許へ叩き付ける。道化た無法者である筈の彼女が、厳しく顔を引き締めて、今ばかりは臨死の友へ向かう謹厳な医官の様であった。その右手を介して汐路が魔力を送り込み続けると、安辺の痙攣は徐々に鎮まっていき、やがて、息は荒らげながらも尋常な様子となって寝転ぶ彼が残ったのである。

 地獄の苦悶から解放されたばかりと言うだけでなく、恐らく複雑な情感を得たことも理由として、臥したまま荒い呼吸を繰り返すのみであった彼は、立ち上がった汐路と暫く見つめ合っていたが、やがて、

「とにかく感謝するよ、ボス。」

とだけ呟いて目を閉じた。

 そうやって安辺からの視線が切れたことでいましめを解かれたかのように、汐路はこちらを向いて、

「やったのは、先生?」

 私の返事も聞かぬまま、

「と言うことは、私の最悪な想像で合ってる? 私の居ない隙に、カレンやアンタ達が先生を、」

 そして私も、その言葉を最後まで聞かないまま、汐路の背に隠れて縋ることで事態を説明した。スーツ地の厚ぼったさすらも、何か頼もしく感じられる。

 汐路は、暫く小道世と睨み合っていたが、やがて溜め息をきつつ腰を屈め、困憊している安辺からナイフを綽々と没収した。

「悲しいよ、私は。」

 明らかに戦意を失った小道世と、そもそもまともに動けない安辺は放置して構わないと判じたらしく、「先生、残りの二人は?」と訊きながら、彼女はそこを離れようとしたが、

「いや、待ってくれよボス。」

 下からの安辺の声は、流石に元気が無かった。

 汐路は、振り向きもせず、

「今忙しいんだけど、下種野郎。」

「まあ、ちょっと待てって。いや、確かにさ、そこの小道世のオッサンとか、あとカレン姫とかは、金欲しさにアンタを裏切ろうとしたらしいんだよ。陣内は、まぁ、なんかカレンに誘惑された、みたいな感じだったかな俺から見るに。

 でもさ、少なくとも俺はさ、金なんかどうでも良かったし、それに、アンタのことが嫌いな訳でもなかったんだよ。なんと言うかさ、……口惜くやしくてさ。」

 汐路がそびらを返そうとするので、くっついていた私も安辺の方へ向くことになった。彼は上体を起こしてはいたが、その力なき様は、病床で食事を供される末期患者のようである。

「そう、口惜しかったんだよ。アンタの言うままに動いててさ、まぁ、楽しかったっちゃ楽しかったけど、……でもなんか、俺、このまま一度もアンタに勝てないまま終わっちゃうんじゃないかなって、ずっと悩んでたんだ。」

「『勝てない』? なに、勝ち負けの基準が分からないんだけど、」

「俺も、分かんないんだよね実は。」安辺は、年齢相応の印象を初めて見せた。つまり、ティーンエイジャーらしい惑いを。「でもさ、漠然と、……なんかこのままじゃアンタに『勝て』ないで終わるなって不安をずっと抱えていて、俺なりに真剣に苦しんでいたんだよ。それで、そうしたらある日、加連川の奴がさ、面白いこと考えているんだけど、とか言いだしてさ、」

 安辺は、天井を見上げて目を細めた。恐らく魔灯の眩しさの為にそうしたのだろうが、その虚ろげな表情は、恰も、彼が感慨に呑まれているかのような印象を与える。

「つい、命運みたいなのを感じちゃったんだけど、馬鹿だよなぁ、俺。そんなもの、有る筈ないのに。

 御免よ、ボス。半端になっちまった。アンタと一緒に居続けるか、見事アンタを出し抜くかしなきゃいけなかったのに、俺が弱いばっかりに、……先生を止められるほど強くもなく、或いは加連川の唆しを無視出来るほど、強くもなかったから、」

 汐路は、何か言葉を返そうと逡巡していたようにも見えたが、しかし、結局また踵を返し、

「行くよ、先生。」

 とだけ呟いた。

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