第四章 切り裂き魔、五臓六腑を搔き回し

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 長閑な、日々だった。卵山から都内に戻って以降の私は、食事や多少の家事の他には、のんびり鎗田そうださんと働くくらいしかしない静かな生活を送っていたのである。あれ程に、好悪どちらの意味でも騒がしかった、つまり好い方としては殆ど上下の無いじゃれあいが賑やかで、悪い方としては兇刃によって危うく汐路さんのような創痍を私も帯びるところだったあの仕事は、しかし龍虎会での出来事に比べれば殆ど私の精神を苛まず、つまり私は、意気を毀たれることもなく、また逆に病的に何かを求めてのめり込み過ぎてしまうこともなく、日々尋常にファウンテンでの仕事をこなせていた。法理の及ばぬ場所で蠢いていたことによって帯びた黒い熱が、日常の平穏、例えばこうして清にして冽な氷を冷凍庫から搔き取る時に手許を襲ってくる冷気などによってすすがれ、今の私の心は無辜の市民然とした様子をすっかり取り戻していたのである。心なしか、鎗田さんの豁達も、無理に演ぜられたものではなく彼女本来のそれであるように、ここ数日は見えていた。事実、例の私の心配も今やまともに受け取ってもらえて、そろそろ一人での営業も再開しようかな、なんて話もしてくれるようになっているのである。前は、話題に出すだけで激されてしまったのに。

 そして今は、絶え間なく客の続く時刻を乗り越え、私は、そして恐らく彼女も、快い疲労感と達成感を纏いつつ、乏しい在庫を片づける為にもう一踏ん張りしているところだった。

「はい、いらっしゃいませ。御註文は?」

 久々に来た客へ向けられた、接客用に半音高められている鎗田さんのこんな声音は、

「そっちのお嬢さん、お持ち帰りお幾ら?」

「……は?」

 胡乱な言葉によって、一瞬裡に毒を得た。

 明らかに女の声だったので、なんだ馬鹿な冗談を言ってくる馬鹿なばかも居るものだなと、視線を手許から上げ、御尊顔を拝もうとしたのだが、

「やっほー、久し振り。」

 驚いて採氷用のスコップを取り落としそうになった私は、お手玉のような動作を数秒演じた後に、横の鎗田さんに助けられた。

「し、汐路しおじさん!?」

 彼女は、その生殺を行ってきた筈の厳かな右手を、へらへら振りながら、

「お元気そうね、良かった良かった。」

 眼鏡は外していたが、まともに普段着も持っていないと言うことなのか、その姿は例の灰色なパンツスーツのままで、恰も会社員が公園へサボりに来ているような風体だった。

「……何、涼ちゃん、このシオジって人は貴女の知り合い? 通報しなくて良い?」

「ええっと、はい。」

 本来警察に捕まるべき人間なのは事実だが。

 汐路さんは一度向こうへ振り返り、恐らく、次の客が居たりして憚る必要が有ったりしないことを確かめてから、鎗田さんの方を見やりつつ、

「で、炭酸屋ソーダジャークさん。実は、私の言った言葉、半分真面目でして。つまり私、ちょっと加々宮先生に御用事が有るんですけど、このお店いつ営業終わりますか、とか、または、幾らかお包みしたら今すぐ先生を横取りさせて頂けますか、などと、貴女にお訊きしたかったんです。」

 鎗田さんは、この不逞の女を客として見做すのを完全に抛棄したようで、顰めつつ、

「貴女が涼の何者か知りませんが、さっさと帰って下さい。営業の邪魔です。」

「ええ、でしょうから、」

 そう呟くと、汐路さんは何か手に余る大きさのものをジャケットの内から取り出して、カウンターの上に放った。その正体を見咎めた私は、目を剝いてしまう。しっかり帯の付いた、分厚い札束二つだった。

「充分に、補填はさせていただきますので。」

 この、とんでもないものを提示された鎗田さんは、眉を寄せたままその内の一つを拾い、その端を、戯れに本を虐める学童のように親指で婆娑とはためかせた。

 そうやって、大雑把にあらためる彼女へ、

「御不安で? 何か差し支えるなら、振込でも小切手でもなんでも良いですけど、」

「ああいえ、」

 鎗田さんは、その札束を元に戻すと、Lサイズの紙カップを一つ取って水でなみなみ満たし、そして、思いっきり汐路さんの顔にぶっ掛けた。

 再び目を剝いた私の向こうで、こんな時に限って眼鏡をしていなかった彼女はこの奇襲をまともに浴び、流石に鷹揚を失って見るも無残に喘いでいる。

 そこへ向けて、

「この金が本物かどうかで、貴女へ当てるべき罵倒の内容が変わると思いまして。……私を馬鹿にするな! そこらの俗陋ぞくろうな輩と一緒にするな! さっさと失せろ!」

 鼻をやられたらしい汐路さんは、「信じらんない、」みたいなことを溺れながら言おうとしていたようだったが、結局、

「じゃ、センセ、またちゃんと聯絡するから、」

とだけ、泣き言のように残して去って行った。

 その噎せる背中が小さくなって行くのを、鎗田さんは目で追いながら、

「御免ね、涼ちゃん。でも、何なのよ? アイツ、」

「ええっと、済みません。別に悪い人じゃないんですけど、」

 『悪い』、の意味にも依るんだろうが。

 鎗田さんは、亭主の肌着でも拾うかのように、残された札束を指二本だけで大儀そうに摘み上げつつ、

「なんか、萎えちゃったわ。もうお店閉めちゃうから、涼ちゃん、これアイツに返してきてくれる? で、それでもう良いかな。今日はもう、私一人で全部片づけちゃうわ。」

「あー、……なんか、済みません本当に、」

「別に、涼ちゃんが変なクライアントを踏んで付き纏われただけでしょ? 確かに極めて不快だったけど、でも貴女の責任じゃないって。」

「ええっと、じゃあ、済みませんこれで、」

 去り行きつつある汐路さんを追えと言うので、謝罪はこれくらいにして私は屋台を離れねばならなかった。しかし、何だったのだろう。確かに汐路さんの振舞いは行儀の良いものではなかったが、だからって水をぶっ掛けられるのは少々気の毒なような気もする。また、彼女の罵詈が、「私達を馬鹿にするな」とか「すずを馬鹿にするな」とかだったのなら、まだ分からないでもなかった。つまり、汐路さんの『お持ち帰り』という言葉と相俟って、まるで私を水商売か何かの女のように見做されたと感じて、あるいは自分の商売がその様な店だと虚仮にされたように感じて憤ってしまったと言うなら――多少短慮な所は無いかと思わなくはないが――分からなくはないし、この場合、余計なことを言った汐路さんのせいだろう。しかし、そうではなかった。鎗田さんは「馬鹿にするな」と言うのである。どういう、ことだろう。商売をしに、つまり金を稼ぎに来ている者が、その日の売り上げを遥かに超える金額の提示と共に、今日は少し早めに畳んでくれないかと打診されて、何故あそこまで激昂する羽目になるのだ?

 私の疑問への思索は、濡れそぼった哀れなクラッカーに追いついてしまったので中断させられた。流石に少し反省したらしかった鎗田さんによって握らされていた小さいタオルを渡してやると、汐路さんは顔を敲くように拭きながら、布地に籠もった声で、

「ありがと、センセ。……あー、もう何なのあのヒステリー女、」

「えっと、なんですかね。ちょっと虫の居所が悪かったかも、

 それで、ええっと、何か私に御用ですか?」

「ああ、」汐路さんは、化粧を庇う為に早々顔の水分を諦めたらしく、髪の方を拭きながら、「ちょっと、センセとの話したくて、」

 私は、緊張しつつも素朴な疑問を得たので、まずそれを吐き出すことにした。

「ええっと、銀大ぎんたを通してじゃ駄目ですか?」

「あー、いや。……御免、何かあの子阿呆っぽくてどうにも不安で、」

「あ、完全に諒解しました。」

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