ぱたぱたと愛機を飛ばして、と言ってもせいぜい時速で四十キロメートルしか出さないのだが、とにかくそれを駆って家まで戻って来た。玄関前で鍵を取り出して挿し込み、回そうとするが、

「……開いてるし。」

 ノブを摑み直して開き、

「ちょっと、家に居ようが鍵掛けなさいっていつも言っているじゃん。」

 そう声を張りながら後ろ手に扉を閉めると、丁度、下手人の顔が廊下へにゅっと飛び出て来た。

「ああ、御免よ姉ちゃん。とにかく、お帰り。」

「うん、ただいま。」

 彼、銀大ぎんたが引っ込んでいった先、ダイニングへ私も続いて行き、やれやれと荷物を下ろしてから漫ろに肩を回してみせていると、

「思ったより遅かったね、姉ちゃん。今日は妙に暖かかったから、早く売り切れて帰って来るかと思ったのに。」

 私は、ドキッとしながら、

「何を言うのやら。売れそうな陽気なら、それに応じて多めに品物を準備するでしょ。」

「え? 他の商売人ならともかく、あの鎗田そうだのねーちゃんがそんな手際のいいことする?」

「ええっと、いや、意外と繊細な所有るんだって、ああ見えても。」

「なんか嘘臭いなぁ。……まぁ、そんなことよりさ!」

 見ると、彼はいつも通り、冷蔵器から出して注いで来たばかりらしいオレンジジュースを手に持っていた。傍目には、仕事から帰ってきた姉を想って飲み物を出してくれる甲斐甲斐しい弟に見えるのだろうなぁ、と思いながら、

「はいはい、」

 と呟いて私は右手を伸ばし、土産と言うか残滓と言うか、まだ私の中に多少残っている〝カーボネートラヴァー〟の力を使い、そのオレンジ果汁を、ぶくぶくしいスパークリングジュースにしてやった。

「全く、帰って早々人をこき使って、」

「でもさ、」半ばまで呷り、はぁ、と心地良さそうに息を吐いてから、愚弟は、「複写した魔術って、何時間かで弱まってから結局消えちゃうんでしょ?」

「人に依るかもだけど、私の場合はそうだね。」

「だったら、疲れている所悪いとは思わなくはないんだけど、やっぱり急いでお零れに預からないとさ、」

「ま、実際全然負担にならないから、いいんだけど。」

「しかし、役得だね。本当は微妙に貴重な発泡ジュースを、俺はこうして屡〻しばしば適当に飲めるんだからさ。姉ちゃんがあの店でバイトやってるお蔭で、」

「バイトじゃないってば。」

 早くも飲み干そうとしている銀大の横を通り過ぎ、私も冷蔵器を開けて、舶来の黒スタウトの瓶を取り出した。うん、良く冷えている。

「お酒なら、発泡ものも結構普通に手に入るのにね。」

「瓦斯を高圧にして吹き込む、みたいな技術があれば鎗田のねーちゃんが居なくても大丈夫になるんだけどなぁ。」

「そんなの可哀想じゃん、あの人を喰いっぱぐれさせる気?」

「というか姉ちゃん、こんな時間からビール飲むの?」

「ああ、うん、」私は、つい彼から目を背けつつグラスを用意しながら、「ちょっと、今はそんな気分でさ。御免、今日はお夕飯ゆはんまでのんびりさせてもらっていい?」

 銀大は、彼なりに何か察しようと努力したのか、少し間を置いてから二三回頷いて、

「分かった、よ、姉ちゃん。今日は腕に縒りかけるつもりだから、楽しみにしつつその辺で待っててよ。」

「ええ、ありがと。」

「なんてこと無いさ!」銀大は、早速下拵えに掛かろうと袖を捲りながら、「他でもない姉がに、気遣えないようじゃ男が廃るって!」

 しんみりと瓶とグラスを運んでいた私は、すっ転びそうになった。

「アンタ、ね、……間違っても、他所でそんな口利いてないよね?」


 とにかく夕食と片づけを終え、空っぽになったダイニングテーブルで銀大と向かい合った。普段なら、ここから暫く馬鹿な話を姉弟で盛り上げてしまうのだが、流石に今日は空気が張り詰めている。いや、もしかすると、私がそう感じるだけで、本当に硬くなっているのはこの部屋ではなくて私の気持ちなのかもしれないが。

 つい、まっすぐ向かいを見ることが出来ずに天板の模様を眺めつつ、切妻きりづまのように合わせた両手で自分の鼻や口の辺りを覆いながら暫くボンヤリしていたが、漸く、意を決して、

「とうとう、明日だね。」

「そうだね、姉ちゃん。」

 銀大は、流石に真剣そうな声で続けた。

「分かっていると思うけど、今から『やっぱりやめます』って訳にはいかないからね。」

「うん。そんなこと言いだしたら、逆に危なさそう。」

「〝龍虎会〟はそんなイケイケの戦争するような過激な連中じゃない、ってことにはなっているけど、……実際はどうだか良く分からないしね。」

「うん、もう引き返せない。」

 私は、漸く銀大の方に目を向けてから、

「恰好、悪いね。元はといえば、私が言いだして、アンタを巻き込んだ話なのにさ。」

「何言ってんの姉ちゃん、まだ半分自称かもしれないけど俺は姉ちゃんのマネージャーなんだから、何処までも付いていくよ!」

 彼は、まだ顔の前で組んだままだった私の両手を奪い、卓上へ貼り付け、彼の方の両手で上からしっかり覆いながら、

「確かに初めはそうだったかもしれないけど、でも、今はもう、姉ちゃんが俺を巻き込んだなんて話じゃないんだよ。もうこれは、俺自身の話でもあるんだよ。勿論、専ら魔術の話になる以上、実際に危険な橋を渡るのは女の姉ちゃんばかりになっちゃうだろうけど、でも俺は俺なりに男身で頑張るからさ!」

 その顔は、ああ、いつも下らないことばかり言う我が弟のものとは信じられぬ程に、精悍で、耀いていて、頼り甲斐が有った。

「幸せだな、私は。未だに、アンタや鎗田さんみたいな人が居てくれてさ。」

 そう、私がわざわざ口にしたのは、手の平を汗でしとどに濡らしている我が弟の、精一杯に絞り出した男気を讃える為である。

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