31
「ちょっとセンセ、大丈夫?」
「は?」
そう声が掛かって意識を物理的な方へ取り戻し、顔を上げると、肩や背中に走る痺れるような痛みが、私が不自然な姿勢を何時間か続けていたらしいと言うことを教えてくれた。あれからずっと、闇雲な飛翔を繰り返していたのである。
「あー、ちょっと頑張りすぎましたかね。」
そう呟いてみると、矢庭に、汐路によって私の顎が捕らえられ、彼女の持って来た鏡を強制的に覗かされた。虚ろげな眼と、蒼い顔がそこに有る。
「……ひょっとして出てます? 魔力擦れの兆候、」
「ばっちりと!」
その汐路の叱るような声に喚ばれたかのごとく、加連川もやって来て私の顔を覗き込んで来、彼女の化粧の香りが私の鼻を突いた。汐路と違い華やかに書き込まれた目許が私の近くに来て、心配と言うより興味深げに揺れ動いている。
「あー、ちょっとやばいんじゃないのこれ。サチコ、なんかセンセに買って来る?」
「ヴィタミン系のドリンク、二
「よし来た。」
「ちょっと安辺、その無駄な体力貸しなさい。」
「ほいほい、どうするよ。」
「今から仮眠台作るから、そこに先生運んで来て。」
今朝小道世が寝ていたような、粗末に椅子を並べたものの上に、私はまず座らされ、次いで、汐路の供してくる柿のような色の錠剤を効能も訊かず従順に服すと、すぐに肩を押されて横になった。
「目を離してしまった私も悪かったけど、でも、職業魔術師ならちゃんと自己管理してよ!」
「……あー、済みません。なんか、夢中になっちゃって、」
こんな馬鹿な失敗したの、何年か振りだ。
「というかボス、先生寝かせるにしてもこんな所で良いの? いっそ、ボスん家に連れて帰った方が、」
「いや、どうだろ安辺。だって、誰も車無いよね?」
「……あー。そっかバイク移動になっちゃうのか、良くないねそりゃ。なら、椅子ベッドしかなくてもここで休んだ方がマシかな。」
少し遠くから、陣内の声が響いて来た。
「そしたらよサチコ、俺達今日皆早く帰っちまおうか? お前と先生とで、この部屋一晩占有しちまえよ。」
「あー、……そっか逆にその手も有るか。」
私の意識は、この辺で途絶えた。
規則正しく打鍵する音が、気が付きかけて意識の朧な私に遠くから聞こえて来ている。高い、エンターキーを打ち込むような響きの後に、何かの結果を待つような間が少し空き、それから「クソ!」という悪態が続いた。多分、汐路の声だ。どうやら彼女しか残っていないらしい。と言うことは、あの騒ぎから大分時間が経ったのだろうか。
「あぁ、もう!」という喚き声と、頭を搔き毟るような音が、私の横を通過して行く。朝、半裸の安辺が出てきた方の扉へ、そのまま汐路が消えた。らしい。躰が怠すぎて、眼で確かめる気にはならなかったが。やはりあっちに、シャワー設備でも有るんだろうか。
水音が暫く流れてから、布擦れの音とドライヤーの音とが続いた。そして、汐路が戻って来てまた通過して行ったのだが、なんとまあ、着替えるような場所が用意されていないと言うことなのか、朝の安辺と同じく、彼女も下の下着だけの恰好だったのである。
同性だしまぁ良いか、と一瞬思ったが、駒引に毒されているだけだと気が付き、私が目醒めていることを知らせるべく声を上げようとしたのだが、上手くいかなかった。文字通り、私は絶句してしまったのである。
魔灯の下に晒された汐路の躰は、見るも無残な物であった。前面を袈裟斬りにする痛々しい傷痕が、左の肩から腰元まで幾条も刻まれており、まるで熊に裂かれたような有り様となっている。また、その上端近く、つまり左の乳房の方は特に酷く破壊されて寧ろ陥没していて、悲惨に皮膚を余らせつつ乳暈の辛うじての痕跡を残した様態は、凋みきった風船のそれであった。更には右の乳房も何かしらの手段で焼き潰されたかのように損傷を受け、女性らしさが完全に奪われている。
元の衣服を装うとしていた汐路は、よりにもよってこの最悪のタイミングで私が起きていることに気が付いたらしく、まるで生娘のように、慌てふためいてその辺の布を引っ取って躰を隠そうとした。
「あ、済みません、覗くつもりじゃ、
「え、えっと御免なさい先生!」
椅子に掛けていた服を、大童で纏いつつ、
「えっと、お躰、そう、躰は大丈夫!?」
「あ、はい。お蔭で何とか、」
例の直角眼鏡まで身に付けたしゃんとした恰好になったところで、息の乱れで肩を上下させていた汐路は、そこからがっくりうな垂れた。
「あー、……もう最悪、安辺の馬鹿を説教したばかりなのに。本当、御免なさい先生。」
「私こそ、ええっと、済みません。」
「いや、本当に、どう考えても私が悪いから。苛立っていたとはいえ、全く、……もう、」
私が身を起こすと、汐路は、さっきまで私が頭を載せていた方の椅子の方まで歩いて来、そして腰掛けた。二人きりになったこの広い部屋が、濁り水のような、居心地の悪い緊張感で満たされる。
この状況をどうしたものかと悩んでいると、汐路は此方へ目を向けず、下を向いたまま、
「ねえ、センセ。センセって、なんで魔女に成ろうとしたの?」
「え?」
彼女は顔を上げたが、私の方を見ず、だからといって特に何を見やるでもなく、ぼんやり宙を眺めているようであった。視線だけは通っているのであろう、何かのアニメーション作品の、不気味に乳房の突き出た主人公を描いたポスターが、虚しく魔灯を浴びて白々しく光っている。
「私は、……こうなるしか無かったんだよね。確かに今の生活、あの馬鹿達とじゃれあっているのは楽しいし、お金だってその気になれば本当に幾らでも手に入るけど、でも少なくともきっかけは、本当に已むを得なかった、
ねえ、センセ。センセって、役所とかとの遣り取りってスムーズ? つまり、魔術師としてだけど、」
「ええっと、悪いことするなよと、痛くも無い腹探られるのが――いや、今となっちゃ実際痛いですけど――煩わしかったくらいで、特には、」
「そう、そうだよね。普通そうなんだろうけど。私は、全然違ったんだ。別に何もしてなかったのにさ、近所で変なこと、それこそ車泥棒とか起こるだけですぐに警察が来てさ、拘留されてさ、……酷くない? それで一回単位すっかり落としたんだよ、高校の、」
「それは、……魔術の性質が疑わしいから、ってことですか?」
「そう。ほんと、馬鹿馬鹿しい話。ちょっと特殊な魔術を生まれ持ったってだけで、疑われてさ。当時の私、別に何も悪いことしてなかったのに。
それでも、まあ、紗智夜という子は健気に育ったんだよ。思い返すに、本当に甲斐甲斐しかったと思うんだけど、彼女は、あるいはかつての私は、ちゃんとグレもせずに育って固い所に就職もしたんだ。えらいよね本当。」
汐路は、上着から煙草の箱とライターを取り出すと、昨夜と異なり私に許可を求めることも無く勝手に呑み始めた。思い返すに、この挿し込まれた無遠慮は、彼女が私を疎からぬ者、気も置けぬ者と見做し始めたことの表れだったのかもしれない。彼女が煙を深く吐くと、右手に包まれた影の中に潜む、吸い口に移ったルージュが、今夜は血のように見えて私の眼に留まった。
「でもさ、ある日捕まったんだよ。久々に。心の中では悪態
でも、その時だけは違った。もう警察連中がなんでも有りと言うか、鬼気迫る感じで、痛めつけてでも私に罪を白状させようと必死だったんだよ。……さっきの私の傷、全部その時にされた拷問の結果。見えてないだろうけど、下半身の方も酷くて、……私、子供作れないんだよね。」
また、一度吸ってから、
「アイツらがあの時必死になっていた理由は、分かるんだ。あの時、私、〝災炎の魔女〟だという容疑が掛かったらしくてさ。……そりゃ、普段よりは手荒になるよね。あの無能共も、あのクソ魔女を何時までも野放しにしていたら、面子が潰れるんだろうし。今更馬鹿じゃないの、って感じもするけど、」
思わぬ名前が出たことで、私が心を侵されていると、
「でさ、それでどうしたと思う? とにかく、心身共に目茶苦茶になったから会社辞めて、そんで、それから私どうしたと思う?」
一種の反語かと思ったが、彼女が待ってくれてしまうので、仕方なく私は絞り出す様に、
「想像も、つきませんけど、」
「まず、全部消したんだ、私の情報を。役所のも、警察のも、その他多くからも全部消した。ああ、厳密には一箇所だけ残っちゃってるけど、とにかく出来る限りで全部消した。私の力を、初めて無法に使って、つまりアイツらのシステムをクラックしてね。それで、そう、アイツらのデータベースから、〝非武装主義者〟を持った女についての情報を全部無くしてやったんだ。こうすれば、もう二度と私のところに来なくなるでしょ? 馬鹿な警察とか役所の人間とかさ、」
私は、息を呑みつつも、
「ええっと、でも、それだけだと駄目じゃないですか? だって、幾ら情報を破壊しても、貴女に執心していた連中、特に捜査官とか訊問吏は、結局汐路さんのことを事有る度に思い出してしまうでしょうし、」
「ええ、」彼女は、久々に私の方を見た。「だから、全部消した。そいつらも、」
「え?」
私に向けられた彼女の笑顔は、やはり魔灯による影の効果を受けた魔女然とした物だったが、今そこに自信や傲慢さはまるで無く、代わりに濃い自嘲の色が泛かんでいた。
「全員、ぶち殺した。交通システムバグらせてミンチにしたり、空調イカれさせて火事起こしてやったり、とにかく、色んなことしてやった。アイツらが次から次へと私に嫌疑を向けてきていたから、つまり、『お前の魔術ならこんなことも出来る筈だろう!』と言ってきてくれていたから、私の中にもの凄く実用的で詳細な、そして邪悪なアイディア帳が出来ていてさ、もう、本当に手口には困らなかった。何も証拠も残さなかったし、我ながら上手くやったから、私には嫌疑すら掛からなかった。
そうやって、私は漸く穏やかな日々を手に入れたんだけど、もう、最高だった。本当に、最高だった。謂れも無い疑いを向けられない、何もしていないのに逮捕されたりしない、それだけで、こんなに日々が穏やかで生き生きするだなんて、こんなに胸が透くだなんて、私は、そう、知らなかったんだ。普通が、こんなに素晴らしいだなんて。」
汐路は、その
「この手は、血
彼女はまた、宙を虚ろに見つめながら、
「躰見られたからって、何でここまでの話したんだろうね、私、馬鹿なのかな? なんか、健気に、それこそ身を壊すほど頑張ってくれる先生を見て、私、勝手に愛おしくなってしまったんだよね、先生のこと。それで、ついさ、まず、私の過去を聞いて欲しくなってしまって。私の秘密を、一人でも良いから誰かに吐き出してしまいたいと言う永らくの気持ちが、さっきの私の不様に引っ掛けられて、なんか、とうとう我慢出来なくなってしまって。……弱っちいね、私の心。
そしてもう一つ、……貴女が魔女になろうとした理由が、もしも大したことないのなら、どうか引き返して欲しいと思ってしまったんだ。貴女が、愛おしくなったから。だって、……少なくとも私は、とても苦しい魔女への道を、凄まじい悪徳を犯しながら、なんとか進んできたのだから。」
その横顔には、彼女の言葉通りの、慈愛と悔恨が表れていた。つまりある種老女から孫への窘めや繰り言のような構造の言葉なのだが、未だその悔恨の熱が冷めぬ彼女が語ることによって、その熱の伝播した言葉は、聞き手が逃げ場無く誠実に受け止めざるをえない迫力を帯びており、またその威が雰囲気へ滲み出て、彼女の顔の見え方に厳めしい美しさを加えている。この美しさが、目の当たりにしたばかりの彼女の体の醜さ、痛ましさを逆説的に想起させ、私の精神を強く揺すぶって来た。
「ねえ。センセって、なんで魔女になろうとしたの?」
私は、真剣に悩んだ。適当に誤魔化してしまった方が、私にとって得であるように思われたのである。だが、しかし、同時に、そんな誤魔化しは不誠実の極みであるように、人としておよそ許されぬ大罪であるように、私には感ぜられたのだった。神聖な、そして邪悪な、つまり荘厳な、〝災炎の魔女〟を巡って共有する我々の奇妙な縁を、紹介せずに隠してしまうことは、人道に悖ると私には信ぜられたのである。
「〝災炎の魔女〟に殺された、父母の仇を取りたいんです。」
一言、私がそれだけ言うと、汐路は長い時間を使ってこの言葉を咀嚼しているように見えた。煙を吸い、吐き、そしてうんうんと頷いて。
「成る程、……すると、ますます私を軽蔑するでしょうね。だって、私もかつて、そいつと同じく、人の命を奪ってきた魔女なのだから。」
「いえ、」私は、反射的に話し始めた。「こう、上手く言えないんですけど、……でも、違うと思うんです。汐路さんは、自分の平穏を勝ち取る為に、已むなくそうしただけで、というかそもそも、汐路さんが手に掛けた人間は、かつて確かに無辜の者であった貴女のことを虐げ、そして直截であろうとなかろうと、貴女の身を傷つけた連中じゃないですか。ならば、……寧ろ貴女は、私と同じ様な存在なのではないですか? 勿論汐路さんは貴女自身を虐げた連中へで、私は父母を殺めた魔女へと言うことで、微妙にそこの構造だけ違いますけど、……でも、私達は共に『復讐者』なんじゃないですか?
汐路さん、寧ろ私は、貴女に協力して欲しいと思っていたんです。私から依頼するのか、それとももっと友誼か何かに則る形になるのか、そこは分かりませんけど、でもとにかく、私は貴女達の力を、〝災炎の魔女〟を追い詰める為に借りられればと、何と無く感じていたんです。そして、その何と無さは、貴女のお話を聞いて払拭されました。是非、私は汐路さんに助けて欲しいんです、父さんと母さんの仇を取る為に、アイツに殺されてしまう人が、これ以上出ないように。……いつか、お願い出来ますか。」
汐路は暫くぼんやりしていたが、ふと、携帯灰皿に吸い差しを捻じ込むと、不敵なれど毒の無い、明るい笑顔を私に向けてくれた。今そこに泛かんでいるのは、殺戮の歴史を経て漸く獲得された彼女の穏やかさの筈であったが、私には、単純に清らかなものに見えてしまう。恐らくこの矛盾は、彼女の強さ、深淵さを象徴するものなのだろう。つまり、悍ましい血
「ピースメイカーの傭い賃、決して安くないよ。」
伸ばされた彼女の手を、私は握り返す。
「覚悟しておきます。」
私は、否応なしに駒引さんの話を思い出させられていた。生まれ持った力の為に世の中から虐げられたことで、已むなしに魔女となったという所までは、彼女と汐路とで共通されることのようであるが、しかし、彼女の場合は社会に対抗出来る程のものを築き上げたのに対し、汐路の場合は、隠れ潜む道を選んだということらしい。そのどちらがより優れたものかは分からない、
そして、私に引き返すように滔々と説いてくれる点も、その相似性を保証するかのごとく、この二人に共通したことであった。しかし私は、父母の仇を取るその日まで歩み続けなければならないのである。両親や私のだけではなく、小玉の命も懸かっているのだから。
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