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 結局あの後は汐路の部屋に戻って一晩過ごし、そして今の私はまた、例のデスクに掛けて頑張っている。何度も闇雲な飛翔を繰り返している内に、その飛翔が存外闇雲なものでもないことを、私は理解し始めていた。目的地を、つまり数字で示されるアドレスを心中で描く、或いは祈ると、隣家の焚火からの余熱のように朧げなれど、数多ある経路の内の一つが、正しき道筋として、その存在を此方に主張して来るのである。最初は、気のせいかなくらいだったその訴えが、回数を重ねるにつれてしっかり私へ聞こえるようになり、標識のように確乎たる案内と化して、そして、

「よし!」

 ついそう叫んで諸手を挙げると、島中から注目を浴びることとなったが、私はそれに気が付かない振りをしつつ、

「汐路さん、やりましたよ!」

 彼女はすぐにやって来、

「ええっと、県庁のウェブサーヴァーに到達したってことで良い?」

「はい。すっかりコツを得ましたから、もう何処だって大丈夫かと。」

 汐路は、その真面目すぎる形状の眼鏡の位置を直し、恐らくは私が顔色を損なっていないことを確かめてから、

「いやー。何なら、昨日倒れておいて既に魔力をバンバン操れているってことが驚きなのだけど、本当、飲み込みも早いねセンセ。……うん、」

 頷いた彼女は、右手を此方へ伸ばしてきた。

「そろそろ、私の魔術にも慣れてもらっておいた方が良いかな。」


「と、終わりました。」

 初めて複写術を施された直後の魔術師に典型的なように、汐路は不思議そうに、まだ私の体熱の残っているであろう右手でグーとパーを繰り返し作りながら、

「なんか、……変な感じ。何も変わってない気がするけど、でもなんだか、腕の中に風穴を通されたみたいな感じもして、」

「普通の人は日頃、他人の魔力が躰の中通ったりしないですからね。そういう初めての経験が、違和感として少し残っちゃうかもです。」

「ふぅん。」

「ええっと。それで、どうしましょう。早速、また何処かのサーヴァーに行ってみて、防火壁無効化出来るか試してみます?」

「あ、いや。いきなりやっちゃうとヤバいかも知れないから、暫くはこの部屋の中のネットワーク内で試してもらえるかな。具体的にいうと、安辺のコンピューター相手とかでさ。あと、

「ねー、サチコ!」

 遠くから、そう叫んできた加連川へ、

「何、今忙しいのだけど、」

「いや御免、夕食買出してくるからさぁ、註文纏めて!」

 汐路は、私の占有しているディスプレイの時刻表示を、ちらと眼にしてから、

「え? ……なんだか早くない? まだ五時前だけど、」

「なんかー、いつもの店今日は早仕舞するんですって。だから、早く行って来ちゃう。」

「ああ、そう? ……じゃあ、野郎共何喰うか決めちゃって。センセは、どうする? 私と一緒に遅く残ってくれると言うなら、貴女も何か食べるものを、」

「ええっと、面倒なんで汐路さんと同じので良いです。」

 

 そうやって加連川が一旦去った後、私は言われた通りに隣のコンピューターや向かいのそれへと言った、随分と規模のみみっちい侵入を、汐路の――何だっけ、ディリミタラゼーショニストとかなんとかいう――魔術を用いて行っていた。幻視中で触れるだけで防火壁が消え去ってしまうのは面白く、彼女の言うようにここから強烈な蛮行も色々可能なのだろうが、今私の行っていること自体は微妙に退屈で参っている。

 そうやって辟易しかけていると、道中の我慢をここで弾けさせたかのような風情で腹を抱えて大笑いしながら部屋へ入ってくる者が現れた。加連川である。

「なんだ、五月蝿いぜカレン。」

「ああ、御免陣内。」種々の買い物袋を脇に下ろしながら、「ええっとさ。サチコ! 良いニュースと悪いニュースが有るんだけど、どっちから聞きたい?」

 呼ばれた汐路は、呆れたような顔で立ち上がり、

「それ、本当に言う奴初めて見るんだけど、」

「いいから、どっち?」

「じゃ、良い方から。」

「ええっと、コンビニ行った時籤引かされてさ、缶ビール一本貰えちゃいました!」

「ああ、そう。凄くどうでも良いんだけど。」

「でも、悪いニュースの方は多分どうでも良くないんじゃないかな。」

「じゃ、言って見なさいな。」

「いや、ビルに帰って来た時なんだけどさ、……サチコのバイク、なんか駐禁貼られてレッカーされてたけど、

「はぁ!?」

 私はこの汐路の絶叫に耳を劈かれて打ちのめされたが、他の者は派手に笑い始めていた。

 その中でも特に元気な安辺が、

「え? どうしちゃったのビルオーナー様? 警備会社への金払いケチって叛乱でも起こされた?」

「いや、え? 全然意味分かんない、そもそも昨日までと同じ様に停めてんのに、なんだって、」

「行ったら? 急げば持ってかれずに済むかもよ?」

 既にジャケットを羽織り始めていた汐路は、

「アンタに言われないでも!」

 と叫びながら、駈け足で出て行く。なんか、大変だなぁ汐路さん、などと思いながら、ふと、彼女の頼んだ、つまり私も倣って頼んだハンバーグ弁当がこの騒ぎの隙に冷えてしまわないか心配になり、それによって喰い意地が呼び起こされて、こんな時間なのに私も急に腹が減ってきてしまった。ハンバーグ。安っぽい米に、甘いデミグラスソースと肉汁を絡めて、

 そうやって期待を膨らませている私の両肩が、近付いてきた加連川に突然敲かれた。

「おわ、」

「ねえ、先生、」

 右手は離れたようだったが、左手はそのまま、私の肩を痛い程の力で摑んでくる。

「つ、」私は、そう声を漏らしながら、顔を顰めつつ、「何ですか、加連川さん、」

「ああ、いやさ。」

 右の頰に、何か冷たいものが当てられる。例の缶ビールでもひっつけてきたかこん畜生、と思いながら、少し離されたそれを目に入れると、可愛げに苺の柄が持ち手に印刷された、鋭い果物ナイフだった。

「は?」

 私がそう呟いている内に、刃がくるりと回され、つまり人を殺せる角度に変わって喉元へ突き付けられる。日常的なサイズに纏められた殺意が、魔女の手の中で煌めいた。

「ねえ、先生。……ちょっと、お願いが有るのだけど。」

 周囲を見渡す。席に着いたままの陣内と小道世は、複雑な表情を泛かべていたが、向かいの方で立ち上がろうとしている安辺は、危殆で愉しげな笑顔を作り始めており、そこから滲み出る彼の野蛮さが、効果的に、ここが悪党の巣であることを私に思い出させたのだった。

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