22.うっかりとは誰にだってある



 俯いていて見えにくい目は、たしかにその膝の上に置かれている本に向けられていて、時折頁をめくるために手を動かすのみで、それ以外は呼吸の小さな上下だけしかない。

 集中という言葉はこのためにあるかのようだ。

 膝の上にある本は僕が読むように勧めた本で、驚くほどに読むのが早い。

 本当に読めているのだろうかと疑ってしまうものの、おそらくしっかりと理解しているのだろう。

 やはり目の前に座るヨナは天才なのだと僕は改めて言う。

 だが、フードが視界の端にちらつくのか時折邪魔そうにしているのを見て、僕は少し考えた後――声をかけることにした。


「ねぇヨナ」

「ん?」


 ヨナはゆったりとした動作で顔を上げて僕のほうを見た後、こてんと首を傾げる。

 白い髪がさらさらと揺れるが、僕はそれを気にせずに尋ねた。


「フード邪魔じゃない? さっきから気にしてるみたいだけど」

「……たしかに」


 ヨナはしばらくの間黙って僕の顔を見た後、うんと一つ頷いてフードをとる。

 ぴょこっと猫耳が動いて僕は思わず「うっ……」と声が出るが、訝しむヨナの視線に気が付いて「なんでもないよ」と返した。

 危ない。猫耳の可愛さに危うくどうにかなってしまうところだった。

 ヨナはそれを気にもかけずに再び視線を下に向けると読書を再開する。

 ずっと見つめ続けるのも何か良くない気がして、僕は僕で読書をすることにした。

 だが途中まで読んでいた本だったし、ヨナの本よりもページが少ないこともあって結果的に先に読み終わってしまう。

 下手に動くと集中力を乱してしまうかもと思って動けずにいると、ヨナも読み終わったようで本をぱたりと閉じる。

 そして僕の視線に気が付いて――首を傾げた。

 ぴょこっと耳が動き、僕の視線はそこに釘付けになってしまう。


「なに?」

「い、いや……猫耳かわいいなって」


 そう言い終わってから僕はやってしまったと気が付いた。どう考えても気持ち悪い奴だ。というか、こんなのセクハラでしかない。

 だがいくら後悔しても、言ってしまった言葉はもう戻らない。

 ヨナはしばらくぽかんとした後、一気に顔を赤らめて「な、な……」と意味を成さない声を漏らすばかりだ。


「あ、えっと、さっきのは違くて、本当は触ってみた――って僕はなにを言っているんだ!?

 えっと、別に、その――」


 慌てて言い訳をするものの、自分でも何を言っているかわからなくなってしまう。

 驚くほどアドリブが下手なことに改めて気付かされるが、ヨナは何も言わずに黙ったままだ。

 必死に取り繕う言葉を考えるが、驚くほどに何も浮かばない。

 本当に口に出して言うつもりはなかったのだ。気持ち悪いという自覚はあるし、ドン引きされるだろうという意思もあった。

 だが髪と同じく銀色という表現が似合うその耳に目を奪われて、咄嗟に心の声が漏れてしまっただけなのだ。信じてほしい。


「……触る?」


 そんな様子を見たからか、ヨナは顔を俯かせた後に上目遣いでこちらを見ながらそう僕に尋ねる。

 その瞬間、僕の動きはピタッと止まってしまう。


「い、いいの……?」

「うん。いいよ。ただやさしく……してね?」


 そう言って頭をこちらに寄せてくるヨナ。

 ほ、本当に触ってしまっていいのか……?

 いやでも、前に犬の獣人の人に「触られてどんな感じですか?」と尋ねた時には「くすぐったいくらいで別になんてことないよ?」と答えていたので、僕が考えすぎなのかもしれない。

 いや、いいということはないか。相手が獣人ではなく人間だった場合を考えよう。「耳を触りたい」と異性の同僚に言う――うん、普通にヤバイ。

 とはいえ本人がいいと言っているのだ。ならばそれは合法なのでは?


 ――そんな風に僕の心の中で大議論が巻き起こっている間にも、僕の震える手はヨナの猫耳へと伸ばされていた。


 一秒が何時間にも感じるほど僕の意識は研ぎ澄まされていて、視線はそこに釘付けになっている。

 驚くほど魅力のあるそれは、理性を奪うには十分すぎるほどで――

 ゆっくりとしか動かなくなってしまった自分の手がヨナの耳に触れるかどうかというところまできた。


 あと少し。


 もう少しで念願のそこに触れる。


 そう覚悟し唾を飲み込んだ瞬間だった。


 ――コンコン。


 気の抜けるようなノックの音が響き、ヨナも僕もビクッと体を震わせてそちらを見る。

 お互いに何が起きたのかも認識できないまま混乱していると、ガチャリとドアが開けられたので、弾かれたようにもともと座っていた場所に戻った。


「キノア様、ごきげんよう」


 入ってきたのは他でもない、金色の髪をぶら下げた公爵令嬢シファ様だった。

 もう少しだったところを邪魔されたという思いと、一度触れてしまったらおそらくもう猫耳を触らない生活には戻れなかっただろうという予想。

 複雑な心境になりながらその人と護衛らしき騎士の男性を見ると、その視線は僕ではなくヨナのほうに注がれていることに気が付いた。

 どうしたのだろうと思いそちらを見てみるが、特に何の変哲もない。蒼い目は恨めしそうにシファ様を見ているし、白い髪には少し癖がついている。

 僕が首を傾げていると、そこで護衛が口を開いた。


「ふんっ、どんなものかと思っていれば、魔法使いのくせにそんな耳を付けているとはな」


 …………それを聞いた時の僕の心情を一言で表そう。


 やろう、ぶっころしてやる。


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