最終回

 雑木林を抜けた先、小高い丘を登り切ったところで、雪那が足を止めた。凜を振り返り、例によって淡々とした声音で、

「おまえの家族も解放された。もうじき目を覚ますことだろう。それまでに、戻っていてやることだ」

 凜は安堵し、表情を明るくして、

「誰も死なずに済んだんですよね」

「そうだ。おまえの家族は、みな無事だ」

 家族、という言葉を胸中に反芻した。

「雪那さん。あの子――白亜は、私の遠い先祖だったと思うんです。白亜が雪山で迷ったのをきっかけに、我が家には雪灯籠が作られた。考えすぎでしょうか」

「おかしくはない。死者となってさえ血縁の者どうしが引かれ合うのは、ひとつの道理だ。おまえには辛い話かもしれないが」

 いいえ、と凜はすぐに応じた。

「私は、家族を救いたかったんです。願いが叶いました」

 そうだったな、と雪那は穏やかな声で言った。

「そういえば、屋敷の壁に穴が開いていますが、あれはどうなるんでしょう」

 ふと思い出して問えば、彼女は幽かに口角を湾曲させて、

「夢が適当な理屈を付けるだろう。偽の記憶といえばそれまでだが、我らの存在を知られるわけにはいかないのでな。地震に見舞われたとでも、全員が口を揃えるはずだ。おまえも、話を合わせてやれ。いいな」

 凜は頷き、改めて視線を上げてそのかんばせを仰ぎ見た。いっときだけ目が合った気がしたが、彼女はすぐさま視線を逃がして、

「分かっているだろうが、〈細雪の市〉のことも、白魔のことも、誰にも話してはならない。いっさいを綺麗に忘れられるなら、それで構わない。ただ、元どおり暮らせばいい」

「忘れられると思いますか。雪那さん、私が忘れられると思うんですか」

 凜は少しだけ声を荒げて言った。雪那は短く吐息し、それから、

「ならば生涯、胸に留めておけばいい。おまえ自身のものなのだから」

「はい」

 凜は歩みを再開したかった。一歩、もう一歩と時間を引き延ばしたなら、自分は永遠に雪那の隣にいられるのではないかと思った。しかし彼女は同じ場所に立ったまま、動こうとしなかった。

「私が送れるのはここまでだ」

 前方に、山々の黒い輪郭がなだらかに横たわっている。その隙間から強く光が溢れ出すのを、凜は確かに見た。

 時間だ、という呟きを、長々とした遠吠えが遮った。驚いて後方に視線を返せば、黒い着物に身を包んだ影、そして隣に付き従う獣の影が、少しずつこちらに近づいてくるところだった。

「八重さん、白狼丸」

 凜は泣き叫んで、辿ってきた道のりを駆け足で逆進した。八重のしなやかな腕が、凜を抱き留める。

「凜。どうしてもおまえの顔を見たくてね――店仕舞いの仕事を放り出して来ちゃったよ」

 屈みこんだ彼女の柔らかな肩に、凜は顔を埋めた。体を離すと、今度は白狼丸が近づいてきて、その大きな頭を強く押し当ててきた。

「白狼丸、足は?」

「凜よ、我らは案ずるなと言った。かしらのみならず、我らは足も堅牢だ。八重の菓子を食って養生すれば、これしきの傷、すぐに治ってしまう」

「そう――よかった。また元気に走れるね」

「無論だとも、友よ」

 凜、と近づいてきた雪那に名を呼ばれた。はたとして立ち上がり、彼女に向き直った。

「おまえは、幾つになった」

「十二になりました」

「誕生日の記念に楽器を買いに来た、と言ったな。私からなにか贈れればいいが、あいにく〈細雪の市〉の掟で、おまえにはなにも持ち帰らせるわけにはいかない」

 凜は笑顔を浮かべてかぶりを振った。胸に手を当てて、

「私は雪那さんから、もうたくさんのものを受け取りましたから」

 そうか、と雪那は言い、やがてふと思いついたような素振りで、

「では最後にせめて、雪の精霊の歌を教えよう。聴くがいい――私の歌だ」

 雪那が空を仰いだ。やがてその白い唇が、旋律を紡ぎ出した。凜はただじっと、耳を澄ませているばかりだった。

 人間の言葉では形容しえない歌だった。しかしそれは、例えるなら風に混じる氷雪の煌めきに似ていた。冬の始まりの朝の匂いにも、氷へと変じつつある川面にも似ていた。氷柱から滴る雫にも似ていた。

 凜はそっと、雪那の歌を繰り返した。二度、三度。

 終生、忘れはしまい。

「雪那さんは来年も、この山に市を立てますか」

「さあ、神々は気紛れだ。求められるところに行くのが、私の役割だ」

 予感していた答えではあった。前回、この山に〈細雪の市〉が立ったのは百年の昔なのだから。

 やっとのことで頷いた凜に向け、雪那は付け加えるように、

「人間と我らの居場所は、もとより交わることはない。しかしこの世界のどこかに、私は必ず居る」

 もう行け、と促されて、明け方の光に包まれた雪の中を、凜は独りで駆け出した。帰り道はよく知っている。迷うことはない――出掛けに灯してきた灯籠の火が、私を迎えてくれることだろう。

 懐かしい屋敷に帰ったら、今度こそ家族とともに〈衾雪の市〉に行こう。そして十二歳の祝いには、小さな楽器を買ってもらおう。

 雪風に乗せた音色は、山を、谷を、時をも飛び越えて、どこまでも響くだろう。ちっぽけな人間の唇から紡ぎ出された歌が、この世界の果てまででもゆくだろう。どれほど長く、遠く、旅することになろうとも。

 旋律は決して消えない。

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白唇と雪灯籠 下村アンダーソン @simonmoulin

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