白唇と雪灯籠

下村アンダーソン

第1回

〈衾雪の市〉は遠くて近い。

 西空に滲む夕陽を眺めながら、凜は指折り数えていた。あと三週と三日。そのあいだに風は匂いを変え、きらめく霜が降りて、やがては山じゅうを雪が覆う。目覚めれば世界は様変わりして、自分もまたひとつ歳を重ねている。のんびり眠っているのはもどかしいと、秋の終わりかけた日、まだ十一歳の凜は思う。

〈衾雪の市〉は近くて遠い。

 誕生日の記念には楽器を買ってもらおう。そして私は、雪風に乗せて旋律を奏でよう。


 ***


 いつまでも床につかずにそわついていた凜に、呆れ顔で母は言った――寝てしまえばすぐなんだから、安心しなさい。

「だけど、お母さま」

「楽しみなのは分かるけどね。〈備えの時間〉にきちんと眠っておかないと、冬を乗り越えられないでしょう? 姉さんはもう、寝床に入ったよ。あなたも早くしなさい」

 そんなふうに急かされてようやく、座敷に敷かれた布団に潜り込んだのだが、案の定、凜は寝付けなかった。今度はただの〈衾雪の市〉ではない。自ら参加できるのだ。あと数日、生まれてくるのが遅かったなら、来年までお預けになるところだった。

「姉さんは何度も行ったからいいんだろうけど」

 安らかに胸を上下させている姉の澪を見やりながら、凜はつぶやく。寒がりのうえに出不精で、市に行くより囲炉裏端で寛いでいるほうが好きな類だ。立場が逆だったらよかったのにと、幾度も互いに言い合ったのを思い出す。

「でも、確かにお母さまの言うとおり。楽しめなかったら勿体ないもの」

 自分に言い聞かせ、目を閉じる。夕食のあとで飲んだ濃く熱いお茶のおかげで、小さな体はぽかぽかと温まっている。屋敷を守る〈消えずの囲炉裏〉の快い火音を思い返しながら、ゆっくりと呼吸を繰り返す。やがて山の深い霧に吸い込まれるように、凜は眠りにつく。

〈衾雪の市〉は冬の始まりの朝に立つ。日用品はむろんのこと、各地の珍しい品も多く集まる。食材をたんと買い込んでご馳走を拵えたり、綺麗な布で衣を仕立てたり――〈山の民〉が一年を陽気に過ごせるかどうかは、〈衾雪の市〉にかかっているともいえる。

 暮れ二月、夜一月、朝三月――幼い頃、凜は祖母にそんな言葉を教わった。この国の秋は夕方のみが二月、冬は朝のみが三月続く。あいだに一月の夜が挟まる。〈山の民〉は夜を、与えられた〈備えの時間〉と見做して、ただ眠って過ごす。目覚めると同時に市に出掛ける。それが一年の始め方であり、〈山の民〉の生き方であると。

 もう朝だ!

 凜は勢いよく身を起こし、掛け布団を跳ね除けた。座敷を飛び出し、居間へと急ぐ。家族はもう仕度を始めたろうか? 私も冬服を着込み、荷物を入れる袋を背負って、雪道向けの重たい履物をしなければ。遅れてはいけない。なにせ初めての〈衾雪の市〉なのだ。

「お母さま。お祖母さま。凜はちゃんと目を覚ましましたよ。〈衾雪の市〉に参りましょう!」

 戸を引き開けながら声を張り上げたが、返答はなかった。無人の部屋の中央で、〈消えずの囲炉裏〉の火が揺れているばかりだ。

 どういうこと?

 困惑しながら、今度は障子戸に手をかけた。一息に滑らせた。

 薄闇。反射的に閉じ、少し間を置いてもう一度、今度はほんの少しだけ開けて覗いた。見間違いであることを祈りつつ。

 やはり闇だった。吹き込む風は冷たく、吐息も白い。確かな冬の気配はあるものの、まだ〈衾雪の市〉の朝ではないのだと、凜はようやっと悟った。

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