第40回

 篝は凜の手を振りほどいて、吸い込まれるように洞窟の奥へと駆けていった。その仕種は、跳ねるような足取りは、凜の目にさえ微笑ましい、年相応の無邪気さに満ちていた。長く生きすぎた知恵者の篝は、もうどこにもいない。親友に会いにきた女の子――それでいい。

 赤い背中を頼りにして進んだ。そうだ、ふたりは似た者どうしなのだと思う。あの子のこともこうして、私は追いかけたのだ。いかに疲弊しきっていても、まだ足を止めるわけにはいかない。追いかけっこは嫌いじゃないよ、大丈夫――。

 幾度目ともつかない分かれ道の先で、篝が立ち止まっているのに気付いた。後方から呼びかけようとして、視界に飛び込んできた光景に息を呑んだ。あの小部屋だった。篝と隣り合い、ふたりして立ち竦んだ。

 雪那が沈黙を貫いたまま、氷塊の傍らから離れていった。それを合図にして篝が駆け寄っていく。警告の間もなかった。白魔を捕えた牢獄に、篝は取り縋った。

 白亜、という呼びかけに混じって、柔らかく揮発するような音が生じた。ゆっくりと氷が溶けていく――。

 白い衣を纏った幼い少女の姿だけが、そこに残った。

「ずっと、ずっと待たせてごめんね。これ、持ってきたの。一緒に買ったよね」

 篝は掌を伸べ、少女の眼前にあの懐中時計を差し出した。微笑みながら、そっと。

 少女は凜にも見覚えのある、少し戸惑った様子を覗かせたあと、ぱっと表情を輝かせて自分の懐に手を差し込んだ。取り出されたのは、同じ外観、同じ色味、そして同じ年数を経た時計だった。まさしくふたつで一組の。

「私たち、知らなかったね。〈細雪の市〉の品を持ち帰っちゃいけないだなんて。だけど今は――今だけはまだ、私たちのものだよ」

 少女は瞳を輝かせた。ふたりは同時に、宝物の蓋を開いた。どちらともなく文字盤を向かい合わせた。

 止まっていた針が動き出す。ふたりは時計を握りしめたまま、歩み寄って互いを抱き留めた。百年越しの抱擁。

「帰ろう、白亜」

「今度こそ、一緒に帰れる?」

 潤んだ眼差しで、白亜が少しだけ不安そうに問いかける。篝は笑顔のまま頷く。そして親友を安心させるための言葉を告げる。

「帰れるよ。もう、ずっと一緒だから。迷うことなんか、なにもないんだよ」

「よかった」

 長く雪山を彷徨いつづけてきたふたつの魂は満ち足りて、お互いの腕の中で小さな光へと変わった。じゃれ合うような軌跡を描きながら宙へと舞い上がり、氷の天井を突き抜けて消えていく。その一部始終を、凜はただ黙ったまま見ていた――。

 洞窟が静けさを取り戻したあと、雪那の手が残されたふたつの懐中時計を拾い上げた。彼女は蓋を閉じ、それからこちらへと向き直った。

「約束を――守りました。私は間に合いましたか」

 雪那は頷き、一瞬だけ視線を上方に向けてから、

「確かに約束は果たされた。間に合った、なにもかもが」

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