第39回

「動かないで。そこで待ってて。今からそっちに行くから」

 ならぬ、と白狼丸が叫んだ。凜はびくりとして立ち竦んだ。

「時間がないのだ。もう日の出は間近だ。行け。篝を連れて、先に行け」

「莫迦なこと言わないで。置いていけるわけないでしょう」

 だらりと舌を垂らし、頭部を傾けた白狼丸が、小さく笑い声を洩らした。

「我らは案ずるなと言った。我らは死なぬと言った。行くのだ」

「友を残して去るような真似はしない。そうも言ったでしょう」

 風に掻き消されぬように大声を張り上げた。位置関係は変わらぬはずなのに、白狼丸の姿が遠ざかっていくように思えた。傷ついた霊獣――私の友達。

「おまえは去るのではない。先へ進むだけだ。違うか、友よ」 

 雪原が、これまでとは別種の光を放ちはじめる。登りつつある陽光を跳ね返して生じる、真新しい煌めき。凜は思わず目を細め、篝を、続いて白狼丸を、順に見渡した。両者とも、なにも言いはしなかった。ただ強い瞳で、こちらを見返しているばかりだった。

 咽の奥に熱いものが込みあげた。凜は篝の手をしっかりと掴み、それから声を絞り出すようにして、

「約束して。絶対に、私たちに追いつくって」

「無論だ。白狼丸の名に懸けて誓う」

 走り出した。雪に足を取られるのがもどかしい。振り返りたい感情に抗い、ただ前だけを見据えた。目指すべき場所を、あの少女のことを、一心に念じた。凜も、篝も。

 周囲はすでに、目を突き刺すほどに明るい。いや、眩しい。夜というのは、地表から先に明けるものなのかと思うほどだった。とはいえまだ太陽の姿はない。間に合う。間に合わせる。

 こっちで合ってるの、と不意に篝が訊く。大丈夫、間違いないよ、と凜は答える。

「本当?」

「うん。もうすぐ逢えるよ」

 互いの掌を強く握り合わせる。決して離すまい。決して失うまい。これ以上、淋しい思いはさせまい――。

 目印が、霞んだ視界の真ん中に浮かんでいた。涙に揺れ、ぼやけ、溺れてはいるものの、見失う要素はもはやなかった。打ち付けた全身の痛みを堪えながら、雪を掻き分け、氷を踏みしめる。一歩、また一歩。

 耳元には風音と、篝の息遣いだけが響いている。これまで自分をさんざん惑わせてきた声は聞こえない。うふふ、あはは、という少女の笑い声。白魔の霊力は弱まっている。しかし消えてはいない。

 消させはしない。

 洞窟の入り口をくぐる。荒々しい呼吸ばかりを繰り返していた篝が、地下の闇に向けて初めて大声をあげた。

「白亜」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る