第3回
庭から呼びかけたが、いくら待てども返事はこなかった。自分を外で遊ばせておいて、その隙に寝床へ引き上げてしまう作戦だったと気付いたとき、凜はかんかんになった。
雪玉をいくつも拵えては壁へと投げつけた。さんざんに暴れてから、独りで灯籠のもとへ引き返す。
「姉さんたら」
笠の下へと身を寄せた。淡い光に透かされて、静かに雪が落ちてくるのが見て取れる。薄暗がりに浮かんだ庭木の、曲がりくねった影。白く染まった枝。門から戸口へと続く敷石は、すっかり埋もれてしまったと思しい。肩に乗った粉雪を払い落としながら、凜はしばし、夜の底に佇んでいた。
そろそろ部屋に戻ろうと思いかけたとき、視線の隅をなにかが走り過ぎた。低い位置にふたつ、丸く小さな、そして強い光が見えた。
獣か。いや、おそらく違う。
いくら山奥とはいえ、この屋敷の近くまで寄ってくるだろうか。餌になりそうなものは注意深く片づけてあるのだし、なにより獣は、火を恐れるはずだ。
また横切った。今度はより近い。凜は灯籠に背を預けたまま、息を潜めた。ふたつと思われた光が分かれて四つに、続いて六つになった。じっと感覚を研ぎ澄ませていると、どこからか小さな囁きが流れてきた。声音が――おそらく三つ。
「あれは人の子か? 人の子か?」
「人の子は夜に眠り、冬の朝に寝覚めるのではないのか?」
「では、我らの輩か?」
「かも分からん。連れてゆくか?」
「人の子ならば? 人の子ならば?」
「我らの声は聞こえまいよ。輩ならば、自ずと我らを追って来よう」
「では参ろうか。市に遅れては事だぞ」
光と声が遠ざかっていく。凜は灯籠の竿から半分だけ身を乗り出して、その様子を伺っていた。心の臓が踊り、今しも破裂しそうだった。
市と言った。会話の細部まで聞き取れたわけではなかったが、その語が登場したことだけは確かだ。このあたりで市といえば、むろん〈衾雪の市〉に違いない。
朝までおとなしく待っていれば、母と祖母に連れていってもらえる。その頃には姉も機嫌を直して、一緒に来ると言うだろう。家族が嘘を吐くとは思えない。なにも見なかったことにして屋敷へ帰るべきだという認識は、凜の頭にもあった。
しかし――遅れては事だぞ、とも言った。もう〈衾雪の市〉は立っているのだろうか? 市に遅れることを想像すると、凜は途端に泣き出したくなった。一生に一度きりの、初めての市。望みの楽器が手に入らなかったらどうしよう? 不安が不安を呼び、小さな胸の内側を千々に乱した。そうなると思えて仕方なくなった。
行ってみよう。少しだけ様子を見て、すぐに引き返してくればいい。
腹を決め、屈んで履物の紐を結びなおした。雪の中へ踏み出す。幸いにして、あの光はまだ視界の内にある。そう速い歩みではないから、見失わずに済みそうだ。
凜はすぐに庭を抜け出し、細い山道へと至った。木々のあいだを通り抜け、一心に登り続ける。〈消えずの囲炉裏〉の火を宿した火鉢を、カンテラのように目の高さまで掲げ、勇敢にあたりを照らしながら。
やがて白い闇と光が混然となり、凜の姿を包み隠した。雪と氷ばかりの世界へ導かれたと知ってなお、足を止めることはしなかった。寒くはない。恐れもない。なにもかもが奇蹟の前触れなのだと、幼い凜はひたすらに信じた。
市へ、市へ――。
屋敷の位置を示す灯籠のあかりはとうに失せ、つけてきた足跡も順々に失せた。あはは、ふふふ、という誰かの笑い声を聞いた気がしたが、それもすぐ風音に紛れ、消えた。
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