第31回
凜は階段から飛び降りた。白狼丸が体を滑らせるようにして、受け止める。その力強さとしなやかさ。今にも駆け出さんとする白狼丸の背から、凜は八重を振り返って、
「ありがとう、八重さん」
「私はなにもしちゃいないよ。おまえの手柄だ」
白狼丸、と彼女は続けて、
「気張って走りな。戻ってきたら、いくらでも菓子を食わせてやるから」
それから彼女は長い指を伸ばして、一帯でもっとも背の高い建物を指した。〈細雪の市〉の中心に聳え立つ楼閣。複雑に噛み合った歯車による機巧と、円形の文字盤。少しずつ動いている紋章。
「あれは時計なんだ、凜。〈細雪〉の残り時間、日の出までの時間を示している。人間の言葉に翻訳――するまでもないね。急ぎな。おまえたちならきっと間に合う」
頷いた凜に向け、八重が毅然として告げる。
「おまえは強い。雪那だって持っていない強さが、おまえにはあるよ。自分の信じるべきものを、ただ信じればいい」
言葉にならなかった。ただ掌を精一杯に掲げて、振った――胸に満ちてきた万感の思いの、せめて一端でも伝えるべく。
白狼丸が走り出す。四本の足に力を込め、跳ねるような勢いで加速していく。あっという間に市の灯りが遠ざかって、広々たる雪景色に迎えられた。透明な空気。身を切る風。
冷たい。しかし慣れた冷たさだ。凜は深々と呼吸した。
私は、ちっぽけな小娘だ。特別な能力はなにひとつ持ち合わせない。それでも家族が、この山が、自分の生まれた冬が好きだ。来年も、再来年も、その次の年も、住み慣れた屋敷でこの真っ白な季節を迎えたい。目覚めて窓を開け、はしゃぎ声をあげて、真新しい雪を踏みしめるべく庭へと飛び出したい。少し呆れた顔をしてこちらを眺めている母や、姉や、祖母を振り返って、心の底から笑いたい――。
きっと、誰もがそうなのだ。完璧ではないけれど、小さくて美しい、守るべき景色があるはずだ。長い旅をいつか終えたら、心が帰ってゆくと信じられる場所が。
私は、あなたをそこへ送り出したい。あなたは、もう充分に苦しんだのだから。
「消えないで。まだもう少しだけ――待ってて」
白狼丸の荒々しい息遣いが、風音に混じる。ばたばたとして不格好な走り方だが、速度は目覚ましい。分厚い毛皮は凜をしっかりと抱いて、決して振り落とさない。
「頭を下げておけ、低くするのだ」
まるで勢いを落とすことなく、雑木林へと突っ込む。跳ね回る鞠のような軽快さで、木々の隙間を抜けていく。
白狼丸の脚が地面を、根を、幹を、次々と蹴りつけるたび、急速に方向が変わる。上下の別も判然としない。独りで通り抜けたときにはさぞ広い林なのだろうと思ったが――白狼丸に跨っている今は一瞬だった。視界が開ける。
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