第8回
「この市の主が、あなた……」
「そうだ。しかし人の子を招いた覚えはない。ここは〈細雪の市〉。神々の市だ」
言葉が発せられると、耳がしんしんと痛んだ。雪那が強い冷気を纏っている――というより、場の冷気の源泉が彼女なのだと、凜は悟った。
「すみません、知らなかったんです。とても賑やかな市だったので」
ともかくもそう頭を下げると、雪那はわずかに表情を緩めた。
「霊獣たちの早とちりもあったから、おまえを責めはしない。今回だけは人の世へ帰してやろう。ただし二度と、我らのもとへ近づかぬこと」
「我らって――神様に?」
「そうだ」
「なぜですか」
「おまえが人の子だからだ。いちおう訊いておこう、なにをしに来た」
「楽器を買いに来たんです」
楽器? と雪那が繰り返す。
「お金なら少しあります。目当てのものが見つかったら帰ります。それでは駄目ですか」
勇気を奮い起こして訴えると、彼女は眉を顰めた。
「ここのものを口にしてはならないとは、霊獣たちから聞いただろう。なにかを持ち帰るのもご法度だ。人間は〈細雪の市〉の品に触れてはならない。そういう掟だ」
今度は有無を言わせぬ口調だった。撫で斬りにされたような心地で、凜はその場に凍り付いていた。雪那もまた黙って、こちらを見返している。その鋭い双眸。
粘って頷いてくれる相手でないことは、直感的に理解できた。ここまで来て手ぶらで帰るのは悔しい。しかし仕方があるまい――そう自分に言い聞かせた。落胆を押し殺して、言葉を探した。
「分かりました。本当は来ちゃいけなかったと、獣たちも言っていました。私は家族のもとに戻ります」
「独りで帰れるのか」
帰れます、と応じかけて口籠った。ずっとぶら提げていた火鉢に視線を落として、あわや卒倒しかけた。火が消えている。
「どうして」
いつの間に? そもそもこれは〈消えずの囲炉裏〉の火ではなかったか。あるいは別の場所に移すと力が弱まるのか。
この空間に入り込んだ瞬間にはもう寒かったから、その時点で消えていたのだろう、程度の推理は浮かんだが、それだけだった。火がなくては帰りようもない。霊獣たちは知っていたのだろうか。だからこそ自分を、ここへ送り込んだのか。
ともかく今は、目の前の人に縋るほかない。凜は声を張り、深く頭を垂れた。
「帰り道を教えてください」
「いい子だ」
雪那が満足げな調子で言う。手が伸びてきて、凜の頬に触れた。顎をそっと持ち上げられた。想像どおり、氷のごとく冷たい。母や祖母、あるいは姉の、それぞれの温もりに満ちた掌とは根底から異なる。
しかし不快ではなかった。理由も分からないまま陶然となり、凜はただ、真っ白な女の顔を見つめていた。
「駄々をこねたら、すぐさま魂を吸い上げてやろうと思っていた」
その薄らと開いた唇から、細氷を含んだ吐息が洩れる。ちりちりと、耳元で空気が凍る音。
不意に雪那の髪が風を受けたように広がり、銀色の奔流を成した。凜はそこに、広大な雪原を見た。体を優しく抱き留める、どこまでも清らな――。
「目を閉じろ」
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