第9回

 命じられるままに、固く目を瞑った。幻影の雪原はまだ、失せない。

「帰るべき場所を思い浮かべろ。出来るだけはっきりと。なにか目印があるか?」

 雪灯籠です、と凜は答えた。出掛けに、火を入れてきました。まだ煌々と、灯っているはずです。屋敷の庭に六つ。

「よし――それを一心に思え。ほかのことは考えるな。出来るな」

 出来ます。家のことはよく覚えていますから。傘の形も、色も、穏やかな光の具合も、なにもかも思い出せます。

「上々だ。では今から私が、おまえをこの〈細雪の市〉から連れ出してやろう。私の手を握れ」

 言われたとおりにする。歩き出した。石の床の上には違いないのに、柔らかな雪を踏んでいるような気がしはじめた。寒さは変わらずに厳しい。しかしそれ以上に、掴んだ雪那の手が冷たい。指がちぎれてしまうかと思った。

 長々と、市の端から端まで横断したのではないかと錯覚するほど歩かされた。現在地がどのあたりかもさっぱり分からない。足の感覚も曖昧になってきている。

 問いかけようにも、口を開くのが怖かった。意識が乱れることも、雪那に叱責されることも。けっきょくはただ雪灯籠を想像し、黙々と歩み続けた。

 唐突に立ち止まった。雪那の声が頭蓋の内側に生じる。

(目を閉じたままで聞け。私が送れるのはここまでだ。あとはおまえ自身の力で戻れ。戻れるはずだ)

 一言も聞き漏らすまいと必死になった。頷く。

(私が手を離したら、目を開けろ。そうしたら真っ先に、目印を探すのだ。他のことに気を取られてはならない。目印が見つかったら、ただ真っ直ぐに歩け。いいな)

「分かりました。ありがとうございます。雪那さん、本当に――」

 お世話になりました、と発する前に、彼女の手の感触が失せた。途端に、恐ろしいほどの強風が吹き寄せて、凜は横ざまに転倒しかけた。強く殴られたような衝撃だった。

「そんな」

 目を開けば、世界は真っ白に荒れ狂っていた。肺まで凍りそうで呼吸が儘ならない。猛吹雪の山に、独りで取り残されたのだと知った。

 叫び出したかったが、ただ咳き込んだのみで終わった。全身がたちまちのうちに雪に覆われる。それでいて、身を切る風と打ち付ける氷の礫の痛みは、いささかも減じない。

 耳元の空気の唸りに、遠く笑い声が混じる。幻聴。うふふ、あはは――。

 一歩たりとも動けないまま、ただ震え続けた。埋まった足が、包まれた体が、じわじわと氷漬けになっていくのが分かった。しかし思考の大半がすでに空白に支配され、恐怖さえ感じない。極寒と灼熱が入り乱れて、自分がなにに苛まれているのかも判然としなかった。確かなのは、死が間近に迫っているということだけだ。

(気を取られるな。目印だ。見つけろ)

 声に引き寄せられて茫然と上げた視線の先に、淡い光があった。朦朧とした意識の底から、なけなしの勇気が湧き上がってくる。

 白い闇と光に満たされた世界の、遠い一点。しかし紛れもなく、あれは灯籠のあかりだ。別れ際の雪那の指示が甦り、輪郭を結んだ。歩き出せ。あとはただ真っ直ぐに進め。

 這っているのとたいして変わらない速度だった。全身が鉛のように重たい。それでも凜は決して、止まろうとはしなかった。

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