第10回
見慣れた門に、庭の景色に迎えられても、凜は眼前の光景を幻ではないかと疑っていた。否、〈細雪の市〉への訪問自体が夢であり、本来の自分は寝床で微睡んでいるのではないかと。
「ただいま」
無意識のうちに、掠れ声でつぶやいていた。雪に埋もれた敷石を順々に踏んで、玄関へと至る。手指の感覚がまるきり失せていて、戸を引き開けるのも、上着を脱ぎ落すのもひどく時間がかかった。
やっとのことで座敷へ辿り着き、荷物を下ろして寝床に潜り込む。暢気に眠り込んでいる姉の横顔と、体温と、懐かしい匂いは、過酷な冒険を終えたばかりの凜を心底、安堵させた。抱き着いて暖を取るうち、体の末端まで少しずつ血が巡ってくる。
「姉さん――私、帰ってきたよ」
命拾いを確信した途端、猛烈な疲労と睡魔に見舞われた。急速に意識を失い、眠りの底へと引き込まれていく。
あはは、うふふ――。
身動ぎし、薄く目を開けた。いささかも眠った気がしない。
「え――ああ」
布団の中で凜は、猛吹雪の悪夢に苦悶していたのである。極寒を通り越した激痛や、視界を占拠する雪の色。心身を捩じ切られるような体験のいっさいが、きわめて鮮明に甦っていた。金切り声をあげる寸前での覚醒だった。
そうだ。私は、ちゃんと帰ってきたんだ。
夢と察したが、依然として恐怖は去らなかった。歯の根が合わず、手先足先が震える。眠りながら暴れたのか、体が少しばかり布団からはみ出していた。
掛け布団を手繰って引き上げる。温もりと安心を求めて再び姉に密着した刹那、凜は今度こそ本当に悲鳴をあげた。
「姉さん? 姉さん? どうしたの?」
体が途轍もなく冷たいのだ。どこに触れてみても冷え冷えとし、掌が痛む。熱という熱が完全に失せていて、あたかも氷のようである。肌の弾力も、関節や筋肉のしなやかさも、まるで感じられなかった。
「姉さん、澪、大丈夫?」
必死に呼びかけながら、凜は布団に頭を突っ込んだ。呼吸や心音は――ある。
耳元で大声を出したり肩を揺さぶったりを繰り返したが、澪はいっこうに反応しなかった。いくら寝起きの悪い姉とはいえ、こうまでして目覚めないのは異常である。凜は寝床を飛び出し、母を呼びに走った。
廊下を裸足で駆ける最中、ようやっと異変に気付いた。寒いのだ。座敷もずっと寒かったし、今いる廊下もまた寒い。おそらくは屋敷全体が、底知れぬ冷気に呑まれている。
「こんなこと――ありえない」
呼気が一瞬だけ煙って、きらめきとともに空中で凍った。いつの間にやら壁も氷雪に覆われ、白く変じている。見上げれば、高い天井からは氷柱さえ垂れ下がっていた。
家に居ながらにして、氷の洞窟に彷徨い込んだようである。これもまた悪夢の続きか。本当の自分は今、どこにいる? 凜は恐々とし、立ち竦んで周囲を見渡した。
ぼやぼやしているうちに氷は勢力を増し、信じがたい速さで領域を広げはじめた。慌てて飛び退けば、先刻まで自分が立っていた場所がはや、侵食されつつあった。このままでは自分も氷漬けにされかねない。もはや一刻の猶予もなかった。
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