第32回

 洞窟の入り口が見えてきた。今度は屋敷ではなく、単なる洞穴として目に映った。

「霊力を回す余裕がないのだろう。我らに幻を見せている暇が、奴にはないのだ」

 空気の匂いを嗅ぐように鼻先を突き上げた白狼丸が、そう解説する。

「気配を殺して身を隠そうとしているのだ。しかし時間の問題だろう」

「雪那さんは、もう中にいる?」

 うむ、と重々しい返答。

「我らは雪那の波動を感じる。雪那は怒り狂っている」

「急がなきゃ」

「無論だ。だが雪那が、いつ魔力を爆発させるか分からぬ。巻き込まれれば我らも、決して生きては帰れぬ。どうする」

 冷静な立場を示しながらも、白狼丸は足取りを緩めない。このまま進めと命じれば、迷いなく従ってくれるという確信はあった。しかしそれでは運任せに過ぎる。

「白狼丸。雪那さんに、私たちが来たことを知らせられる? 声、届くかな」

「人間の声では届くまい。だが、すべはある」

 言うなり、すっと頭部を持ち上げた。遠吠えを思わせる高音を発した。

 声は力強く伸び、長々と尾を曳いた。巧みに人の言葉を操ってきた白狼丸が初めて覗かせた、獣らしい仕種だった。山彦のように反響し、やがて小さくなる。

「雪那は耳がいい。これで我らの訪れを知ったはずだ」

「白魔を殺さないように伝えて。私たちが行くまで、どうか思い留まってくださいって」

 承知した、と彼は応じ、再び頭部を差し上げた。先程とは僅かに調子の異なる声を響かせる。二度、三度。

「――返事はあった?」

 白狼丸は答えず、耳をぴんと立ち上げた。慌てて口を噤んだが、凜にはなにも聞こえてこなかった。ややあって、

「雪那は応じない。我らに返事を寄越さぬ」

「聞こえてないのかな。もう一回やってみたら?」

「そんなはずはない。雪那には一度で通じる」

 洞窟へと入り込んだ。足許は下り坂だった。奥には黒々とした闇が領域を広げており、どこまで続いているとも知れない。壁や天井は思いのほか遠いようである。

 歩みは必然、慎重になった。ふたりで周囲の様子を伺う。

 剥き出しの岩肌にところどころ、薄らと霜が付着している。白狼丸が鼻先を押し当て、検分する様子を見せてから、

「雪那は、確かにここに来ているようだ」

「じゃあどうして――」

 問い掛けが終わらぬうちに、洞窟の奥から強風が吹き寄せた。反射的に白狼丸の毛皮に身をうずめ、彼もまた素早くしゃがみ込んで直撃を免れたが、一瞬遅れればまとめて氷の餌食だった。風の孕んでいた氷雪の礫が壁に衝突し、砕け散る音を、凜は背中で聞いた。

 大丈夫だ、と白狼丸に宣言されるまで、身じろぎも出来なかった。凜は怖々と頭を上げ、

「白魔?」

 白狼丸はしばらく返事をしなかった。やがて苦々しげにかぶりを振り、絞り出すように、

「違う。これは雪那だ」

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