第19回

 案の定、影は前方の林に吸い込まれた。凜も後に続く。咄嗟の判断が功を奏して、かろうじてその背を見失わずに済んでいる。あと少しでも遅れていたなら、この絶好の機会をみすみす逃すところだった。

 小刻みに幹を避け、根っこを飛び越え、引っかかってくる枝を払い除け――凜は一心に、林の中を走った。待って、待って、と繰り返すこちらの声が届いていないのか、相手は止まらない。よほど雪山に慣れていると思しく、足取りは迷いなかった。普段から利用している近道なのだろう――でなければ、自分と同じ年頃の少女が独り、こんな雑木林になど入り込むはずがない。

「お願い、あなたの助けが必要なの」

 不意に、影が静止した。追い縋り、後ろから肩を叩く。

 相手がゆっくりとこちらを向いた――やはりあのときの少女だ。色白で、存在感の希薄な。

「よかった。やっぱりあなただった。私を覚えてる? ほら、市で会った」

 笠をいったん外し、よく顔が見えるようにして語りかけた。しかしこれといった応答はない。虚ろな瞳で凜を見返しているばかりだ。

 忘れている? いや、前回もひとことだって言葉は交わさなかった。口が不自由なのかもしれないと思い至った。あるいは耳か。

「あの――私の、声、聞こえてる?」

 明瞭に発声しなおしてみたが、やはり無反応である。この時点で、先の仮説が確信に変わった。無視しているわけではないのだ。伝え方を考えなければ。

 落ちていた枝を拾い上げ、雪上に大きく「ろうそく」と書いた。隣に「火」と付け足す。

 ようやっと少女が頷いた。凜は安堵し、頬を緩ませた。分かってくれた。

「返して」

 声に出しながら、さらに書き足す。少女の顔色を窺った。相変わらず無表情ではあるものの、こちらの意図を汲み取ってくれたような気配がある。

 ついてきて、と言うように、少女が身を翻した。歩きはじめる。先刻までと同様、滑るような速さだ。狭い木々の隙間をすり抜け、あっという間に遠ざかっていく。

 一瞬の躊躇いが生じた。今ならまだ、雪那と霊獣の到着を待って合流できる。心強い協力者たち抜きで、独りふらふらと動くべきではないのかもしれない。

 しかし――ここで逃がしたくない。それが偽らざる本音でもあった。家族を救う機会を、むざむざ見過ごしたくない。

 相手はおそらく自分より年下の、耳も口も不自由な、そして極度に内向的な少女である。雪那や霊獣と引き合わせようものなら、まず間違いなく怯えさせてしまう。開きかけた心を閉ざしてしまっては元も子もないのだ。せっかく協力的な態度を示してくれたのだから、素直に従えばいいだけではないか。

「一緒に行くよ。連れてって」

 黒々たる雑木林の奥へと失せかけた背を目掛けて、駆け出した。少女の白い着物は、今しも雪に紛れそうである。行くと決心した途端、他の思考は脳裡から消し飛んでいた。

「待ってってば」

 凜が不思議な少女を追って去ったあと、一帯に風が巻き起こった。雪に書きつけた文字が薄れ、消えていく。最初に見えなくなったのは、「火」の一文字だった。

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