第25回
「人の子よ。そもそもおまえはなぜ、市に来たがったのだ」
どうしても凜が眠らないと悟ったのか、道すがら、霊獣が話しかけてきた。声色は先ほどと同様、穏やかだ。凜は指先で濡れた眦を拭って、
「〈細雪〉に来たのは勘違いのせい。私が楽しみにしていたのは〈衾雪〉――人間の市。ちょうど私の誕生日だから、お母さまが好きなものを買ってくれる約束だった。私、楽器が欲しかったの」
そうか、と霊獣は納得したように頷き、
「人の子よ、おまえも音楽をするのか」
「『も』? 友達に誰か、音楽をやる人がいるの?」
「友ではないが、雪那が。雪那はよく歌っている。声を風に乗せて、遠くまで響かせている」
思いがけないその回答に、凜はいっとき、唇をぽかんと開いた。雪那の歌。普段の低く、毅然とした声音からは想像しにくかったが、一方で、胸苦しいほどに美しかろうという気もした。なんにしろ、強く興味を引かれた。
「雪那さんは、どんな歌を?」
「人間の言葉では説明が難しい。しかし耳にすれば、すぐにそうと分かる。我らは真っ先に駆けつけるのだ」
屋敷から助け出された直後、雪那が不思議な合図で霊獣を呼び出したのを思い出した。あれが彼女の歌なのだろうか。確かに、明確な音色や旋律を伴うものではなかった。
「無理やりに人間の言葉にするなら?」
ううむ、と霊獣はしばし考え込んでから、
「いうなれば、風に混じる氷雪の煌めきに似ている。冬の始まりの朝の匂いにも似ているし、氷へと変じつつある川面にも似ている。氷柱から滴る雫にも似ている」
凜は久しぶりの笑みを浮かべた。霊獣の答えを気に入ったのだ。
「あなたは、雪那さんの歌が好き?」
「人間の言葉では説明が難しい」
「好きなの?」
沈黙を挟み、やがて堪忍したような口調で、
「そうと問われれば――我らは雪那の歌を好むのかもしれぬ」
凜はますます笑顔になった。涙に濡れていた頬も、今は乾いたようだった。
「神様の歌には、なにか特別な力があるのかな」
独り言半分、問い掛け半分で発すると、霊獣は案の定、「我らは知らぬ」と応じてから、
「しかし雪那の歌を聴きつけるたび、我らは雪那に会うべきだという気になるのだ」
霊獣が雪那となんらかの契約を取り結んでいるのか、あるいは純然たる使命感に突き動かされているのかは、凜には判じかねた。訊ねても答えてくれまいとも思った。彼らもまた、自分の祖母の代よりも古い付き合いなのだろうか。
知らないことばかりだ。この世界は。
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