第36回
「うん」
さんざんに氷を砕いてきた彼の額を、そっと撫でてやった。雪那の正面に立つ。
輪郭がわずかに明瞭さを増した。初めて対峙したときよりもずっと長身に、かつ厳かに見えた。表情こそ普段の彼女に戻っているが、冷たい怒りの気配は確かに察せられた。凜はその白い顔を見上げ、
「お願いがあります。白魔を殺すのを、少しだけ待っていただきたいんです」
「こいつを生かしておけば、日の出と同時におまえの家族は死ぬ。それを理解した上での言葉か」
淡々とした問いに、凜は迷いなく頷き、
「はい。でも私は、家族を見殺しにするつもりはありません。白魔自身の意思で、呪いを解かせます。そうして、帰るべき場所へと帰します。もう二度と、悪さはさせません」
雪那は眉を顰めた。きっと思ったことだろう――人間の考えは理解できない、と。
実際にそうは口にしなかった。代わり、彼女は低く、
「その方法が、おまえに分かるというのか」
「確信は持てません。それでもやる価値はあると信じています」
短い沈黙があった。雪那は凜を改めて見下ろし、
「おまえ自身の意思か」
「他の誰でもない、私自身の意思です」
目を逸らさなかった。呼吸さえも忘れていた。
短い問答はそれで終わった。ややあって、雪那のほうから凜に背を向けたのである。
すぐさま白狼丸が駆け寄ってきた。体を支えられる。急激に力が抜けて、今しも崩れ落ちるところだった。
「よくやった。雪那は確かに、おまえの言葉を受け止めた。神々すら恐れる氷の女王が、おまえの訴えを聞いたのだ」
雪那は氷塊の傍らに立った。内側の白魔――少女に顔を寄せ、小さく囁きかけるように、
「苦しいか。貴様が人間たちに味わわせてきた苦痛は、そんなものではない。魂まで凍りつく苦悶――雪と氷の精霊でさえ地獄の苦しみに身悶える極寒を、貴様にくれてやろうと思っていた。しかしあの娘が、貴様が傷つけたあの娘が、貴様の命乞いをするという」
吐息が氷をなぶるたび、白魔の妖気が弱々しげに揺れる。今にも吹き消されてしまいそうだった。
「せいぜい生き延びることだ。苦しみが長引くだけに終わっても、私の知ったことではないがな」
雪那がこちらを振り返った。厳格に言い渡すような口調で、
「おまえたちに時間をやろう。しかし分かっているな。日の出を過ぎれば、おまえの家族はもう引き返せなくなる。戻らなければ、私の判断で白魔を殺す」
凜は白狼丸と顔を見合わせた。目で頷きあう。素早く手馴れた動作で、彼の背に飛び乗った。
「ありがとうございます、雪那さん。私たちを信じてくださって」
「まだ信じたわけではない」
と雪那。彼女は付け足し、
「証明してみせろ。人間が、人間であろうとする意味を」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます