第30話 グレープフルーツのパッション
疑問符の浮いた私の顔に彼女は今少し顔を近づけた。
微かなコロンはグレープフルーツのパッション。
躍動的な彼女に似合っている。
「作品の力です。作品を生み出した凪田さん、あなたの力なんですよ、私たちを動かしたのは」
「作品の力」
これは、魔法の言葉だ。
自分が褒められるより、自分の生み出したものが褒められるというのは、創作者にとっての甘露だ。
この甘露の報酬があれば、リアルな報酬などいらない気分にさせられる。
危険な報酬だ。
「あなたの作品には、迷いが見られますよね。この迷いをふっきるか、迷いのまま生かすか、それは、オリジナリティに関わってくる重要なポイントだと思います。迷いの質が純粋なんですよ。不器用さが、痛いほど伝わってきます。嫉妬すら相手への思いの結晶として美化している。それが、歯がゆい、うざい、と思う人もいるかもしれません。でも、そんな風に心を疼かせると言うのは、作品としてすごいということです」
波紋屋ルカの言うことは、最もなことのように思えた。
でも、全てにうなずけるかというと、それは違うような気もする。
そんなにすらすらと解明されてしまうような感情ではないはずだ、私にくすぶるものは。
「ありがとうございます。作品をこんなにていねいに読んでくださって、なんというか、これからの糧になります」
疑問符の部分は抑えて、まずは礼を述べた。
「さて、それでですね、メールでもご提案させていただきましたが、プロットをいただいたお話は、本コンテストに応募していただきたいのです」
「はあ、それは、私も、あのプロットは中編か長編向きだと思っていました」
「そうですか、でしたら、話は早いですね」
「話? 」
そこで波紋屋ルカは、さらに、ぐっと顔を寄せてきた。
グレープフルーツのフレッシュアロマがはじける。
思わず瞬いてしまう。
彼女の瞳がすぐ目の前にあった。
視線をはずすことができず、私は固まっていた。
それにはかまわず、彼女は口を開いた。
「プレコンテストですが、参加者の皆さんに、同じテーマで書いていただくことになりました。事後承諾になってしまって申しわけないのですが」
「同じテーマ、ですか」
寝耳に水だ。
ここで譲ると、なし崩しに譲ることが増えていくような気がした。
「他の作者の方も、みなさん、このことはご承知なんですか」
「現在確認中です」
「では、私が、それはできないと。いえ、したくないと言ったら、どうなりますか」
「その選択肢はありません」
「ずいぶん強引なんですね」
「その選択肢がないだけで、無理強いではありませんので」
「立場は、編集さんの方が強いじゃないですか」
「そんなことはないです。作家さんがうちでは書かないとおっしゃったら、こちらからは強制できません」
「でも、それは」
「申しわけございません。お願いします。同じテーマ、共通テーマでお願いします」
波紋屋ルカは、立ち上がると、深々とお辞儀をした。
彼女のシフォンスカーフが、お辞儀の後追いで、ふわりと舞った。
スローモーション。
思考は逆に、フル回転を始める。
これをもし断ったら、私の立場はどうなるのだろう。
先の案件の10万文字原稿とスピンオフもなかったことになるのだろうか。
それはないにしても、ぎごちなくなってしまいそうな気がする。
会議で決まったと言っていたけれど、編集会議、プレコンテスト選考委員会会議、広報誌作成会議、ひと口に会議といっても、どの会議なんだろう。
波紋屋ルカは強制していないように見せて、実は決まったことだからと押し通そうとしている。
ただ、こんなことくらいで、デビューへの可能性を棒に振るような真似はしたくなかった。実際に、順序だてて、事前に打診を受けていれば、受け入れられるような案件だった。こう矢継ぎ早に来られると、作者側が戸惑うのは当然だと彼女は想像しなかったのだろうか。それか、レールを敷いてそこに載ったら、作者側は脱線しないように、ハンドルを握りながら進むしかないのだろうか。
私は冷めてしまったコーヒーを口に流し込んだ。
よい豆なだけあって、冷めても芳香はまだ残っていた。
「頭を上げてください。わかりました。やってみます。その同テーマを教えてください」
私は、コーヒーカップを置くと言った。
波紋屋ルカは、ゆっくりと姿勢を元にもどすと、私の顔を見て、改めてお辞儀をした。
「ありがとうございます。今後は、このようなことのないよう、連絡を密に変更には事前に打診を徹底させていただきます」
「他には変更する点はありませんか」
「現時点ではございません」
「現時点では、ということは、今後またありいうるということですか」
原稿の書き直しは覚悟しているが、それ以外でのやり直しは、簡単に受け入れられるかどうかは、その時になってみないとわからない。できれば、変更など無いにこしたことはない。
ただ、編集側は、読者に受け入れられるようにしていくことを考えねばならず、作家側は、自分の生み出した作品が愛おしくて一度この世に生れでたのならあまりいじくりまわしたくないと多分に思っている。そうした行き違いから、微調整が必要になったり、大幅変更になったりすることがあるのだ。
「ない、とは断言できません」
「そう、ですか」
「できませんが、努めます」
波紋屋ルカの真剣な眼差しに、今回はこちらも折れざるを得なかった。
「わかりました。では、今後は、何かの折には、すぐにご連絡をお願いします」
「はい」
「それで、テーマですが」
「はい。テーマですね」
彼女は和紙のメモ用紙に、さらさらっと何やら書いて、私に見せた。
「はじまり」
メモ用紙に達筆で記されていたのは、「はじまり」という言葉だった。
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