第1話 時間をまたぎそこなった三十歳
ビル風に煽られて自転車ごと車道に飛ばされた私、
一年と少し前のことだ。
二十代最後の年の災難だった。
学校司書として調べ学習用の資料を山ほど前と後ろのかごに乗せていた私は、突風をかわすことも、踏ん張ってとどまることもできなかった。
運よく自動車が途切れたところだったので、ひかれることはなく、すぐに救急車で運ばれた。
ただ、運がよかったのはひかれなかったということだけで、それから、寝ているのか起きているのかわからないような意識のたゆたいに身をまかせたまま半年が過ぎていった。
意識のたゆたいの中で、聞こえてくるのは波の音だった。
眠り続ける私に、かつての創作活動の
聞こえるはずはないのに。
母が、彼女からだと絵葉書の文面を読み、そして写真の海の場所を告げると、私には、その海の波の音が聞こえてきた。
母は読み終えると、病室の壁に立てかけたコルクボードに、絵はがきをピンで留めていた。
ベッドの上で、起きることのままならない状態で、耳からの情報で記憶に刻まれた絵葉書の海の寄せては返す波の音が、遠くに近くに、静かに、響いていた。
幾千回、幻の波を数えたことだろう。
ある朝目覚めた私は、リハビリの必要のないほど、いきなり回復していた。
医師も看護士も家族も、皆驚いていたが、一番驚いたのは私だ。
すぐにでも着替えて出かけてしまいそうな勢いの私を、周りの人間は、なだめて、すかして、念のためにとリハビリをすすめていった。
一進一退の日が、それから、また半年ほど続いた。
三十歳の誕生日を迎えて退院した私は、全くの自由の身となっていた。
一年の入院の間に、休職から退職になっていた。
これは親の判断によるものだった。
学校司書という仕事に未練はあったけれど、職場そのものに未練があったわけではないので、状況を素直に受け入れて、私は自宅療養という名の気ままな時間を得ることになったのだ。
退院して最初にメールしたのは、彼女にだった。
絵葉書のお礼と、それから、もう出版されているはずの彼女の本のタイトルについて。
白状しよう。
私が事故に合ったあの日、図書館の自転車置場で受け取った彼女からのメールには、彼女の小説が出版されることになったと記されていたのだ。
動揺したのだ、私は。
そして、上の空で、自転車をこいでいた。
重量オーバーの資料を載せて、いつもより注意深く運転しなければならなかったのに。
先を越された……そうではない、自分は
彼女の返信には、快気祝いをしようということしか記されていなかった。
本については触れられていなかった。
私に気をつかったのだろうか。
それとも、まだ書き直しているのだろうか。
もしかしたら、出版されなかったのだろうか。
私は、彼女のペンネームを検索してみた。
いくら探しても、彼女のペンネームは出てこなかった。
出版に当たって、ペンネームを変えたのだろうか。
いずれにしても、彼女に会えば、わかることだ。
「ごめん、誘っておいて遅れて」
待ち合わせは、駅中のコーヒースタンド。
久しぶりの再会に何か違うと感じたら、そのまま解散できるように、気軽な場所にした。
「真帆子が事故に合った時、私、あなたを見てた」
「見てたって」
「あんなに動揺するとは思ってなかった。投稿はやめたって、もうずいぶん前に言っていたから」
「…………」
「あの時、突風であなたが倒れた時に駆け寄って、真帆子、あなたに触れた。そしたら、めまいがして。すぐに治ったんだけど、救急車に運ばれていくあなたを見送ることしかできなかった」
淡々と語る彼女に、なつかしさを覚える。
「真帆子が生死の境をさまよっている間、何も手につかなかった。それで、あなたの意識がもどった日に、ようやく初稿を編集部に送ったんだけど、出版の話など無いと返事がきて。それに、最初からそんな話はしてないと言われて、戸惑った」
「そんなことって」
どう言葉を継いでいいかわからず絶句する私を、彼女は見つめた。
「時間をまたぎそこなったんだと思う」
「え」
「本の出版には至らない世界に、ずれてしまったんだと思う」
時間をいじるフィクションが溢れているとはいえ、実際にそんなことになるとは信じがたい。
ご都合主義の展開を嫌う彼女が、そんなつくり話をするというのも信じられないことだった。
「あの、ごめん、なさい」
「どうして、あやまるの」
「だって、その、大変なことに巻き込んでしまったんだよね。私の事故で、時間軸がずれたとかそんなことに。現実にあるなんて信じられないけど」
「事故にあって大変だったのは、真帆子、あなたじゃない」
「でも、夢、だったんだよね、二十代のうちに本を出すのって」
「ただの夢、時間がずれた世界では、夢ではなかったってこと」
「そんな、そんな簡単に納得できることだとは思えない」
同じ世界に同じ人間は同時に存在できない。
だったら、もともとこの世界にいた二人は、入れ替わったのだろうか、もともとの自分たちと。
それとも、キューに突かれたビリヤードボールのように、次々と飛ばされていってしまったのか。
「ごめん」
ふいに彼女が言った。
「え、なに」
「うそ」
「うそ? 」
「本が出なくなったのは本当。でも、それは、出版社が経営破綻したから」
彼女のうそに、ほっとした。
彼女の書いたものに、価値がなかったわけではないのだ。
私のあきらめた夢を叶えようとしてる彼女の創造物は、必ず結晶しなければならない。
私は、力が抜けて、その場にへたりこみそうになった。
彼女はさりげなく手を伸べて、私の腕をとった。
「一緒に、やらない」
「何を」
「書くの。書いて、小説家になるの」
「え、でも、私は、もうあきらめたから」
「うそ」
今度の「うそ」と言った彼女のきっぱりとした口調に、私は思わずつぶやいていた。
「あきらめたつもりだったけれど……」
「書いてるんでしょ、文章。あなたのメール、読みやすくて面白い」
私は、彼女を見つめる。
「思い出して、原点を」
「原点……」
思いがけず出た彼女からの提案は、私が望んでいた二人の岐路に立ち戻るということに通じるように思えた。
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