第33話 生協食堂でコーヒーブレイク

 南北線東大前駅で降りて、地下道を進み地上に出るとすぐに農学部正門。

 木曽檜の荘重な農正門。

 門の右手の煉瓦塀に、「農正門」と記された北海道演習林のイチイの木の銘板が掲げられている。

 守衛さんに軽く会釈して門を入ると、右手に農学資料館が見える。

 農学資料館は、東大農学部の歴史、暮しや産業と関わる研究を紹介する施設だ。

 広くはないスペースだが、農学関連の興味深い展示物が並んでいる。

 でも、今回の目的地はそこではない。

 と思う。

 そこにも、ハチと先生の痕跡はあるけれど。 

 資料館を背に、左手に歩いて行くと、そこに、ハチはいた。

 「近代農業土木の祖」上野英三郎先生と、飼い犬の忠犬ハチ公。

 手を差し伸べた先生のもとへ、うれしそうに駆け寄り飛びかかるハチの姿もいじらしい銅像。


 再会の時。


「会えたんだね」

「よかったなあ」

「ほんとうにねえ」

「ほんとうになあ」


 街歩きで立ち寄ったのか、老夫婦が語り合いながら銅像と一緒にお互いの姿をカメラにおさめている。


「シャッター、押しましょうか」


 微笑ましさに声をかけていた。


「まあ、うれしい」

「うれしいですな」

「お願いします」

「よろしくです」


 手渡されたカメラに銅像と二人をおさめてシャッターを切った。

 

「ありがとうございました」

「お世話になりました」

「どなたかと待ち合わせですか」

「ここは、ハチと先生が出会えた場所ですからな、きっと会えますよ」


 何も話していないのに、心を見透かされたかのようだった。

 老夫婦は、農業資料館の方へ歩いていった。


 銅像の周りは、視線を遮るものはない。

 枝を広げた樹木が、並木道を作っていて、隠れるとしたら、その陰だ。

 そんなかくれんぼはしないだろうと、スマホを見ると着信があった。

「コーヒーが飲みたくなったので、生協食堂にいる」とあった。


 それを見て、さっき美味しいコーヒーをごちそうになったばかりだというのに、また飲みたくなって、生協食堂のある校舎に向かって、キャンパスの並木道を進んでいった。


 農学部生協があるのは、東京都選定歴史的建造物に指定されている3号館。

 農正門からまっすぐ正面に見える。

 戦前に建設されたという風格と味わいのある館の地下に降りていくと生協がある。

 入り口を入って突き当りが生協食堂、左手が購買部。

 購買部では、コーヒーのテイクアウトができる。

 すぐに顔を出すのもなんとなくしゃくで、購買部で農学部関連の書籍やハチ公グッズを眺めてから、生協食堂をのぞいた。

 学生のグループが一角を占めて、ぼそぼそと何か話し合っている。

 他には、ぽつりぽつりと、ノートパソコンを広げてレポートか何か作成している学生が何名かいた。

 泊愛久は、そんな学生たちから少し離れた席で、いつものように、文庫本を読みふけっていた。


「お待たせ」

「待ってたわけじゃない」


 いきなりのご挨拶だった。

 彼女は、海都社で見かけた気がした印象のままのスーツ姿だった。


「スーツ、珍しいね」

「リクルート」

「え、職探しにこっち来たの、本当に」


 以前言っていたことを、実現しに来たのだろうか。


「職探し、といえば、そうとも言えるかも」


 クリーニングがえりと思しき黒のスーツに白いシャツ。

 家から着てきたのなら、しわがよってくたびれていそうだが、そのしわすらも着こなしていて見苦しくない。

 まとめ髪のほつれ毛すら、適度なゆるみのアクセントだ。

 凛とした中にほの見える艶。


「そうだった。これ、プレゼント。時期を逸した感はあるけど、再会祝い」


 私は、ファッションビルで買ったペールトーンのブルーのリネンストールを取り出した。


「きれいな色」


 珍しく素直に、彼女はうれしそうだった。


「巻いて」


 命じられて、私は、後ろに回って彼女の首にストールをかけた。

 片端を結んで、その結び目にもう一方を入れる。

 それから、ふっくらとした片リボンを作り上げる。


「ありがとう」


 彼女はアールデコ模様のコンパクトミラーで、ストールの結び方を確認すると言った。

 

「あなたのも、あるんでしょ」


 当然だと言わんばかりに彼女は言った。


「結んであげる」

 

 彼女の気前良さに、少し不安になる。

 何かあったのだろうか、と。

 それでも、彼女の指が首回りを触れるというのは、抗いがたいものがあった。


「きれい、茜色」


 彼女はストールを器用に扱って、自分と同じ結び方を私にしてくれた。

 私は、さらっとしたリネンの肌触りの心地よさに、しばし浸った。


 自分に使える潤沢な資金があるとは言えなかった学生時代、私と彼女はよくよその大学のキャンパスに散歩に出かけた。

 都内であれば、電車の一駅二駅歩くのは造作もないことだった。

 郷に入れば郷に従うで、その大学の学生のようなふりをするのは二人とも得意だった。

 時には大教室の講義に潜り込み、見ず知らずの学生の代返をしたり、広げたノートで筆談をしたり、音がしないようにこっそり口に放り込んだチョコを、舌で転がしながら口元は動かさないように細心の注意を払ったり、起きたまま眠っている学生を見つけて、くすくす笑いをこらえたりした。

 それは、二人で共有できるささやかな娯楽の一つだった。

 その大学には、彼女の買い物のつきあいで、時々訪れていた。

 買い物に寄るのは、たいてい本郷キャンパスだった。

 農学部のある弥生キャンパスには、そういえば、来た記憶がない。

 来たことが全くなかったかどうかは、はっきりしないけれど、彼女と一緒にハチにあったことはなかったと思う。


 リネンストールの肌触りと、ストールを結んでくれた彼女の指のひんやりとした感触とを思い浮かべ味わっている間に、彼女はコーヒーを飲み終えていた。

 かちゃり、とカップを置く音がして、我に返ると


「ストールを結びっこするために、あなたを呼んだわけじゃない」


 と、いつもにも増して、ぴしりと、彼女が言った。





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