第32話 昼下がりの南北線

 そういえば、あれは、いつだっただろう。

 泊愛久が「博士と犬」に会いに行ったことが、前にもあったことを思い出した。

 泊愛久の行動は不可解で唐突で、でも、後になってみるとちゃんと辻褄があっている。「後付けの理由じゃないの? 」と詰め寄ったこともあるけれど、自分がいきりたっているのは彼女の辻褄を認めざるを得ないからだった。


「ハチに会いに行ってくる」

「ハチ? 忠犬ハチ公? 渋谷は人でなしが行く場所だって言ってたのに」

「人でなしよ、十分、自分で言いきれるくらいには」


 彼女は言い放つと、眉の動きだけで私に不機嫌さを伝えて、気分を害したとばかりにシガレットチョコをくわえた。


「渋谷のハチはお行儀がいい。遊べないから、そっちには行かない」

「そっちには、って、じゃあ、どこのハチ」

「ハチの飼い主の先生のガッコー」

「学校? 」


 私は首をひねる。

 秋田犬のハチは、渋谷の他にどこにいただろうか。

 

「じゃあ、行ってくる」


 彼女は、出かけていった。


「ハチの先生って、確か、近代農業土木の祖と言われている東大農学部の上野英三郎先生、そういえば、犬好きだったかも、そう、飼ってた。じゃあ、渋谷じゃなくて、本郷? 」


 私は、猫好きの彼女が、なぜ、人様の犬に会いに行こうとしているのか気になり、後を追いかけた。

 その時は急に雨が降り出して本降りになり、二人して雨宿りした「猫溜ねこだまり」という猫カフェではない自由猫のいる喫茶店が気に入って、博士と犬に会いに行くのは取りやめになったのだった。



 そんなことを思い出しながら、原宿駅から山手線外回りに乗って揺られていく。

 新宿、池袋と乗降者の多い駅を通り越して、九つ目の駒込駅で降りる。

 ここは、広々とした回廊式庭園の美しい六義園、薔薇と洋館の旧古河庭園、個性的な展示物の東洋文庫ミュージアムなど、駒込を最寄り駅とする観光施設が充実している。

 こうした施設へは、時間の余っていた学生時代には、なぜか訪れたことがなかった。


 だいたい、桜の時期のお花見宴会以外で、花を見にわざわざ何処かへ行くということをしなかった。

 文学作品に出てくる花は愛でても、生の花を愛でるという趣味を持つほど枯れてはいなかった。

 花より人、だったのだ。

 見つめるしかできない存在より、見つめ合い語り合える存在が、若い時にはそばに置いておきたいものだったのだろう。

 それに、みずみずしくて、はちきれそうな若い肉体は、花が持っている自然界の生命エネルギーのようなものは必要としなかったのだろう。


 今は、三十歳を超えた今は、花の香りに癒される。

 花束をもらおうものなら、顔を埋めて、それこそ花のエネルギーを吸収したくなる。

 疲れてるな、と思うのは、そういう時だ。

 ただ、純粋に、花の美しさに浸ることができない。

 

 花の香りに思いをめぐらせ、ホームを上がって、山手線の改札を出て、地下鉄の駅へ降りていく。


 昼下がりの地下鉄南北線。

 ホームも車内も混んでいない。

 ぼんやりとベンチに座っていたら、何台か乗り過ごしてしまった。

 まだ気持ちが落ち着かないままなのかもしれない。

 私は、ミントキャンディを口に放り込むと、滑り込んできた電車に乗った。

 

 まばらに座る学生の合間を埋めるように、座席に座った。

 イヤホンに、画面をすべる指先。

 ほぼ同じ装備の学生たちが、一人ずつ自分の空間で過ごしている。

 私は、音楽を聴かない、外では。

 電車の音、ドアの開閉の音、お年寄りのしわぶきの音、イヤホンから洩れる軽快な楽曲、カバンの位置を直す時のがさつきの音、誰もしゃべっていないのに震える車内の空気、自分の身じろぎの音。

 そんな、聞きなれているけれど、慣れ合わない音に浸っているのが好きだ。

 

 走る電車のリズムの心地よさに、うたた寝をすると、泊愛久と同じ電車に乗った日のことがよみがえる。



「音フェチなの? 」

「そんな大げさなもんじゃないけど」

「気持ちわるい。電車で自分の隣りに座った人が、自分が出す音に耳を澄ましているなんて」

「別に、あなたの出す音を聞いてます、って告白するわけじゃないし、自然に聞こえてくる音を聞いてるだけ」

「そういうのを口に出して言うのが、気持ち悪いのよ」


 気持ち悪い、と何度もくり返しながら、彼女の口元は笑っている。

 妙につっかかってくる時は、私に賛同している時だ。

 彼女に言ったことはないけれど。

 

 これも、やめ時が肝心だ。

 相手が喜んでいるからと言って、延々と続けるのは愚だ。

 タイミングを誤ると、すぐに矢が飛んでくる。


「おなかすかない」

「すかない」

「近江屋でショートケーキ食べない」

「食べない」

「食べたいって言ってたじゃない、さっき」

「今すぐじゃない」


 いつも通りの会話にもどすと、彼女の笑みも口元から消える。

 すっと筆ではらったように、笑みが消え失せてしまう。

 そして、私は、安心する。


 近江屋の丸い苺サンドショートケーキに、彼女は目がない。

 ストロベリーに、ホイップクリームに、丸い形のかわいらしいケーキ。

 およそ彼女に似つかわしくないのだけれど。

 彼女には、モカやレアチーズがふさわしいと私は思う。

 言わないけれど。

 

「じゃ、買い物先にしてから、ね」


 私は一人言のように告げると、文庫本を開いた。

 彼女は、すっと私の肩に触れるように寄ると、のぞきこんだ。


「『田端文士村』」


 彼女のささやきが、耳元に風を送った。

 横目で見ると、近すぎる彼女の輪郭がぼやけて、目眩がした。

 駅名を告げる声が遠くに聞こえる。

 私は頭を振って、深呼吸をして、席を立った。

 膝から文庫本がすべり落ちた。

 かがんで拾って振り向くと、座席には誰もいなかった。


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