第24話 静かだけれど、言葉に溢れている空間

 その日帰宅してから、海都社の原稿の作業をまず一気に仕上げた。

 仕上げた原稿はしばし寝かせてから、締め切りの前にもう一度確認しようといったんしまった。


 それから、泊愛久に読んでもらうための小説のプロットに取りかかった。

 最も、彼女にはそんなことは言わない。

 そんなことを言ったら、開封しないまま突き返されるだろう。

 公募を目指す小説を書いて、それをあえて公募には出さずに彼女に差し出すのだ。

 

 そう思いながらも、彼女の好む傾向の小説について、思い出が溢れてくる。

 溢れてきた思い出は、そのままでは、きっと書くものに影響してしまう。

 それを避けるために、私はいったん机を離れて、ソファで仮眠をとることにした。

 ホットミルクでからだを温めて、ブランケットをかけて横になった。

 うつらうつらしているうちに、学生時代のサークルの読書会の風景が浮かび上がってきた。



 あれは、何回目の読書会だっただろう。


 大学の非公認文科系サークルの読書会は、学内の「大広間」と呼ばれるだだっ広いラウンジの一角にあるソファを占領して、不定期に開かれていた。

 その場にいるメンバーが、必ずしも全員参加するわけではなかった。

 ただ、読書好きの集まりではあったので、みんな本は持っていた。

 そこで、たまたま誰かがあげたテーマに沿った本を持っていれば、即参加者になった。


 泊愛久は、明治時代の文学が好きだった。


 大正文学は浮ついていて定まらないけどまあまあ、昭和文学戦前はぎりぎり近代文学で許せる、戦後はもうどんどんつまらなくなる現代文学だ、と、煙を巻くようなことを言っては、サークルのメンバーの読書量の少なさを嘆いていた。

 読書系サークルなので、それでも一般の学生よりはずいぶん本を読んでいる者が多かったとは思うが、彼女の基準には達していなかったということだろう。


 私も、決して読書量は多い方ではなかったが、高校時代に友人たちと創作活動ごっこをしていた時に、同人誌に本の紹介をするため背伸びした海外文学や戦前の日本の幻想小説、異端の作家の本などを読んでいた。


「本の趣味は悪くない」と彼女は、私が手にしていた文庫本を取り上げた。

「牧野信一。大正から昭和初期にかけての作家。これは、ギリシャ牧野時代の作品ね」


 文庫本には、小田原生まれのエキセントリックなところのあった作家牧野信一の「ゼーロン」が載っていた。

 ロバの出てくる不思議な趣の話だ。


「高校の友だちと、卒業旅行で行ったの、小田原に。歴史好きと文学好きのメンバーだったから、小田原城と小田原文学館。その時に、牧野信一のこと知って」


 彼女は私の言いわけじみた説明には関心がないとばかりに、ぱらぱらと文庫本をめくって、はさんであった和紙の折紙を折って作ったしおりをつまみあげた。


「作ったの? 」

「和紙の折紙が余ってたから。いる? 今度作ってくる」

「これがいい」


 彼女は私が返事をしないうちに、しおりを自分の脇に置いてあった本にはさんだ。

 

 その後読書会がどうなったのかは、記憶は曖昧だった。

 

 当時の彼女は、「勉強やバイトをしてるひまがあったら戦前の本を読むわ」と言いきって、図書館、書店、古本市をめぐり、近代文学というくくりの本を自分の脳内の近代文学の書架に詰め込んでいった。


 教室やラウンジで彼女が見当たならい時は、図書館の明治の文豪たちの全集の棚の前に行けば、大抵見つけることができた。

 書架に寄りかかって、重厚な全集を両手で抱えるように持って、熱心に文字を目で追っている姿は、崇高さに溢れていて、すぐに声をかけることができず、しばらく見つめているのが常だった。

 ページをくる音が、するりっ、と、空気を伝わってくる。

 図書館は、静かだけれど、言葉に溢れている空間だった。


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