第20話 後輩の匂い 彼女の匂い
「先輩、凪田先輩じゃないですか」
聞き覚えのある声。
サークルの後輩だった
追いコンの時、記念になるからと、写真をしきりに撮っていたのをなつかしく思い出した。
卒業してからサークルに顔を出したことは一回か二回あったくらいだ。
卒業生は、卒業後も頻繁に顔を出す派とそうでない派、二度と現れない派に分かれる。
サークル誌の記念号に寄稿するにしても、昔は原稿を手渡しに来てついでに飲んでいったりといったこともあったようだが、今ではメールに添付ファイルで事足りてしまう。
あらゆるおつきあいの類が簡便になった代わりに、物寂しさを感じないでもない。
「偶然ですね。先輩も見に来たんですか、それとも、お茶ですか。ここのカフェ落ち着きますよね」
「すっごく、久しぶり、だね。みんな元気にしてる」
「はい、それなりに。私は、地元でお役所勤めです。区の施設でのイベントの折衝係とかやってます。そうそう、今度、担当してる中央図書館で、夏原ノエ先生の講演会をするんですよ。夏原先生の新作、児童文学なんです。文学の香り高い和風ファンタジー。ボーイミーツガールのロマンティックファンタジーなんですよぉ」
「ロマンティックファンタジー? ずいぶん今までの作風と違うんじゃない」
「彼女をくどき落した編集者がいたそうです。先生の書いたファンタジーがどーしても読みたいです、って。講演会にその編集の方もいらっしゃるかもしれません、っていうか、絶対いらっしゃってもらう予定です」
貝原沙羅はうれしそうに話しながら、屈託のない笑顔で近寄ってきて名刺を手渡した。
ふっ、と、柑橘系の匂い。
彼女の髪が揺れると漂う、清かな酸味の果実の香り。
誰からも好かれる匂い。
アレルギーでなければ。
そういえば、泊愛久はあまり化粧の匂いがしなかった。
眉を整えファンデーションは肌に馴染みルージュを形よくひいていたのに。
彼女の化粧は、自分の美しさを引き出すためのものであって、化粧で自分を損なうことはなかった。
私は、未だに眉をうまく整えることができず、そうだった、私の眉を初めて整えてくれたのは、彼女だった。
「自然さと、ほったらかしは、違う」
そう言って彼女は、小さな専用はさみを器用に扱って、私の天然のままの眉をカットして整えてくれた。
「怖くないの」
彼女に訊かれて、私は、「どうして」とすぐにききかえした。
「目に近いところに、刃がくる」
「泊は器用だもの」
「そうじゃなくて」
彼女はそこで口をつぐむと、私のまぶたを人差し指の腹で抑えて、眉にはさみを入れた。
「先輩、凪田先輩」
後輩の声に我にかえって、私はみかんの皮をきゅっと絞りかけられた猫のように目を細めた。
「あの、よかったら、ですけど、夏原ノエ先生の講演会、いらっしゃいませんか。生の小説家さんのオーラってキラキラギラギラしてて、そばにいるとそれを浴びて自分も何者かになれそうな気がしてくるんですよね」
「夏原さんと会ったの」
「打ち合わせで、ちょっとご挨拶、みたいな。少しの時間でしたけど。夏原先生、小柄で、一見おとなしそうな目立たなそうな人なんですけど、小説の話をしだすと、もう、キラキラギラギラスパークして、びっくりでした、素敵な方でしたけど。受けとめるの大変そうかも、おつきあいする人は」
新進気鋭の小説家、夏原ノエ。
心の中でライバル視している作家。
こちらはまだデビューもしていないのに、勝手に羨望と嫉妬の視線を注いでいる。
そんな作家の講演会。
行きたい。
話をきいてみたい。
図書館で開催ということであれば、講演の内容は、本や読書についてのものになるだろう。
きっと、サイン会や、直接話す時間もとられるに違いない。
「そういえば、鷗外お好きでしたっけ。いつだったか、ラウンジで読書会やりましたよね、鷗外の」
「そうだったかな、読書会たくさんあったから、あんまり覚えてないな」
「ところで、待ち合わせですか。彼氏さん、とか」
「待ち合わせだけど、彼とかじゃないから。いないし」
「先輩、かわいいじゃないですか、職場にいないんですか」
「仕事覚えるのでせいいっぱいで、それどころじゃなかったの」
あまり詮索されたくなくて、私は現在の状況については、はぐらかした。
今は無職だと言うとあれこれきかれそうなので、それは言わずにおいた。
こちらが言わなければ、自分から聞き出そうとするほど無神経ではなさそうだった。
それでも、仕事以外のことは気になるらしく、
「ふう、ん」
と、貝原沙羅は、疑わしそうな表情で私の顔をのぞきこむと、
「じゃあ、誰と待ち合わせですか」
ときいてきた。
答える義理はないが、言わずにいると、余計長引きそうだったので、私は言った。
「泊さん」
「え」
貝原沙羅は、驚いたような顔をした。
「泊さんと待ち合わせたんだけど、行き違いになっちゃったみたいで」
前からのくせで人差し指で頬を突きながら少し考えてから、貝原沙羅は口を開いた。
「地下の展示室見ましたか」
「一通り見たけど、いなかった」
「二階の図書室は」
「図書室? 」
「休憩スペースと、図書室があるんです。あ、でも」
貝原沙羅が言い終わらないうちに、私は中へ引き返すと、エントランス左奥の階段を駆け上っていった。
「あの、もしよかったら、ですけどー、凪田先輩、今度、古本市にー、つきあってもらえませんかー」
後輩の声が遠くに聞こえた。
そういえば、小綺麗でかわいらしい後輩は、古いものが好きだと言っていた。
アンティークマーケットも、古書市も、彼女にとっては、時代を宿す誰かの歴史の宿るものという点で、尊いものなのだと言っていた。
彼女は人への興味は薄かったが、どうやら私を除いては、とまた自分語りに入り込みそうだ、そうではなくて、後輩の集めてきた古いものには、一度ならず、興味を示したことがあった。
そんなことを思い出しているうちに、二階に着いた。
二階の図書室の手前のスペースに、ミニ展示がしてある。
そこを抜けて図書室をのぞいた。
先に寄った図書館からすると、こじんまりとしたスペースだ。
そういえば、観潮楼から鷗外記念館になる間は、ここは文京区立本郷図書館鴎外記念室だった。
入口付近の、ここの絵葉書を手にすると、私は室内を眺めた。
閲覧机をぐるりと回って、ものの一分もしないうちに、ここに彼女がいないことを確認した。
図書室を出て左手のガラス張りの休憩スペースの椅子に腰かけた。
庭が見下ろせる。
と、庭園の回廊を抜けて、かつての観潮楼正門の出入り口の外へ過る人影が見えた。
思わず身を乗り出して目を凝らしたところで着信音が鳴った。
私は、携帯を取り出した。
着信は、彼女からだった。
「今、どこ」
「あ、ごめん、遅れちゃって。今、鷗外記念館の二階」
「そう」
「今、どこにいるの、すぐに行く」
「カフェ」
「え、さっき見た時はいなかったから、他探してた」
「そう」
「じゃ、行くね」
そこで通話は終わった。
私は、エレベーターで一階に降りると、貝原沙羅がうろうろしていないのを確めてから、ミュージアムカフェへ向かった。
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