第21話 見かけが変わろうとも、心が荒もうとも

 カフェスペースに入って左手の窓際の席に、彼女は座っていた。

 室内に背を向けて、庭をぼんやり眺めている。

 大きな窓からは、庭木の緑が午後の陽射しに濃さを増し、遠くに霞むスカイツリーは、今ここは現代だとの指標のように佇んでいる。

 カウンターでコーヒーか紅茶か迷ってから、ドイツ紅茶のアールグレイを注文して支払いを済ませてから、彼女に声をかけた。


「ごめん、待たせちゃって」


 謝罪の言葉とともに椅子に腰かけた。


「17時26分」

「え? 」

「新幹線」

「あ、そうなんだ、16時半にはここ出ないとだね。ごめん」


 久しぶりに会えたと思った途端に、門限を告げられた気分だ。

 自分が悪いんだけれど。

 それでも、私をせめるでもなく、ただ事実を告げただけというのは伝わってきたので、気まずくはならなかった。


「書いてるの、何」


 いきなりの問いかけ。


「何って、内容はちょっと」


 意表を突かれて、口ごもる。


「詩、評論、随筆、小説、ポエム、エッセイ、コラム、」


 問われたのは、ジャンルだった。

 ならば、答えられる。


「小説。書くと決めたから」

「そう」


 彼女はティーカップになみなみとつがれた紅茶をひと口飲んだ。


「見せられないからには、本になる小説ね」


 当然とばかりの発言。


「そ、それは、まだ、はっきりとは」

「はっきりしないなんて言ってる間に、企画自体が無くなる」


 ぴしゃり、と決めつけるような言い方に、びくりとして彼女を見る。


「え、そ、それは、出版業界は厳しいから、そういうこともあるかもしれないけど」

「厳しいとか甘いとかゆるいとか、そういうことじゃない」


 いつものクールな口調に、さっと影が差した。


「覚悟、できてないじゃない」


 差した影がすっと伸びて私を覆った。


「これ、読んで」


 彼女は角2サイズの封筒をテーブルに置いた。

 厚みからして、たぶん、原稿が入っているのだろう。

 私は受け取って、封筒の中をのぞいた。

 思った通り、打ち出された紙の束が入っていた。


「あれ、この封筒って」


 そこで私は気がついた。

 小規模ながらも良書を出すことで知られていた出版社の名前が封筒に印刷されていることに。


「この封筒って、この出版社って、もしかして」

「そう。もう出ないから、真帆子、あなたが読者第一号、そして最後の一人」


 厳密に言えば、担当編集者が読者第一号なのだろうけれど、関係者以外でということなのかもしれない。


 彼女から、ファースト、と指名されたことに胸が躍る。

 うれしい。

 私は封筒を抱きしめた。


 けれど、いいのだろうか。


 出版社が無くなってしまったからといって、出版が決まっていたのなら、よそで書籍化を請われることもあるかもしれないのではないか。

 

「今読まなくてもいいから」


 いつも通りのとりつくしまを与えない雰囲気にもどっている。

 これ以上、何もきくな、ということだろう。

 いずれ、知ることもあるかもしれない。

 今は、久しぶりの二人の時間を優先しよう。


「次に会う時まで、持ってて」


 私が封筒を抱きしめたまま固まっているのをほぐすように、彼女が言葉を継いだ。


「わかった。ありがとう。読者第一号なんて、光栄です」


 おどけた風にていねい語が出た。

 彼女は眉をしかめて、でも、口元をゆるめて、頬杖をついた。


「大銀杏。庭に、そこに見える銀杏の木。観潮楼の時からそこに立っていて、森家の人々のことを、見守ってきた」

「当時のままなんだよね、銀杏は」

「残っててよかった。残してもらえてよかった」

「そうだね、当時を偲ぶものって、一度なくしてしまったり、動かしてしまったりしたら、取り返しがつかないもの。覚えている人が生きている間は、それでも、様子はわかるかもしれないけど」

「記憶は不確かだから」

「そうだね」

「不確かな方がいい場合もある」


 彼女の独り言に、私が相槌を打つ。

 会話というより、劇のセリフとその解説のような。

 昔から、彼女との会話は、こんな風になることが多かった。

 それも、二人ならではと思うと、心地よい。


「読書会、覚えてる」


 珍しく彼女から、学生時代の話が出た。


「もちろん」


 サークルでの読書会は頻繁に行われていたが、このタイミングで彼女が言い出した読書会は、あの時のだろうと当たりはすぐについた。


 彼女は、鷗外が好きだった。

 正確には、鷗外の作品が好きだった。

 短編をとくに好んでいたように思う。


 社会人になって普通の日々が幾年過ぎても、見かけが変わろうとも、心が荒もうとも、その話題になれば、学生時代にもどれる。

 それが、ゆるいようでいて真剣に取り組んでいたサークルという世界で、同じ季節を過ごした証。


「確か、紅茶でもコーヒーでもなくて、ハーブティーだった。菩提樹の香りの」

「そうそう、後輩でハーブティーにこってる子がいて、ベルリンならリンデンバウムですよね、とかなんとか言って」

「ハーブティーが今よりは珍しかったから、漢方や煎じ薬みたいだって言って、飲みたがらない子たちもいた」

「私は、飲んだら、なんだか眠くなったのを覚えてる」

「真帆子は、リラックスし過ぎ」

「それなりに緊張してるんだけど」


 彼女は珍しくくすりと笑うと、紅茶を口に含んだ。

 それから、「冷めてる」と口にしてから、二杯目を私の分も一緒に注文した。

 


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