第22話 水の上の柩を抱く
「今日は、鷗外で、どう」
ラウンジで三々五々過ごしていたサークルのメンバーたちに、彼女は、手にしていた本を頭の上に掲げて見せた。
持参した本を頭上に掲げるのが、読書会の始まりの合図だ。
事前に本を決めておくこともあるが、大抵は、こうして、突然始まる。
泊愛久は、読書会の主宰によくなっていた。
学園祭で目立つといったことはしなかったが、文学読書サークルとしての本来の活動では、大いに目立っていた。
「鷗外か、読みにくくてあまり読んでないな」
その場にいたメンバーたちが、口々に言った。
「高校の時教科書で『舞姫』読んだけど、なんかひどいなって思って、それっきり」
「『舞姫』の後日談みたいの、『普請中』だっけ、読んだけど、鷗外不信中、なんてね」
「くだらないこと言わないでくださーい」
「そうやって指摘すると調子乗るから、無視無視ー」
メンバーたちは、自分が読んだ範囲内での鷗外について、てんでに好きなことを言い合っている。
だいたいそうやっているうちに、主宰希望者が立ち上がって、場を収めて、注目を集めて、粛々と読書会が始まるのが常だった。
取上げる本が決まると、サークルの備品の文庫本が詰まったスーツケースが開けられて、その中にその本がないかあさる。
大抵の文学作品の文庫本は揃っている。
「『うたかたの記』は、ルードヴィヒ2世が出てきたりして、なかなか、まあ……」
その日、鷗外の本を持っていたのは、私だけだった。
「へえ、あのエキセントリックなバイエルン王が出てくる話があるんだ」
「ドイツ留学もの? 」
「ノイシュヴァンシュタイン城出てくる? 」
「映画で観た、ヴィスコンティだよね」
さすがに文化系サークルを名乗るだけあって、読書以外の映画などのカルチャーにもそれなりに興味を持っている者同士話が盛り上がった。
学生時代には、“文化的”なことをしゃべっているだけで、心地よく時間をつぶせたものだった。
「先輩、お茶にしませんか」
後輩の一人が、ローテーブルに紙コップを並べた。
保温ボトルから注がれた飲みものは、淡い鄙びた葉の色をしている。
「緑茶、ではないね」
「紅茶でも、麦茶でもないみたい、香りが日なたの草みたい」
紙コップを手に、皆が感想を述べる。
「たまたま、菩提樹のハーブティーを持ってきたんです」
後輩が言った。
「そっか、リンデンバウム、ね」
私は、こうしたちょっとした趣向が好きだった。
偶然のように言っているが、その後輩には、以前、鷗外のおすすめを聞かれて本を貸したことがあった。
その時から、こうした機会を待っていたのかもしれない。
そうだとしたら、面映ゆいけれど、悪い気はしなかった。
「落ち着く香り。ありがとう」
私のうれしそうな様子に、後輩は笑顔で「どういたしまして、凪田先輩」と答えた。
記憶の中のその笑顔は、貝原沙羅。
在学中は何かとまとわりついてきたけれど、卒業後はふっつり連絡も途絶えていた。
さっき、ここで会うまでは。
「泊先輩も、どうぞ」
彼女は、後輩が差し出した紙コップを、受け取るでもなく、ありがとうでもなく、手にしていた本をソファの背にたてけると立ち上がった。
――われは始て「ゴンドラ」といふ小舟を見るき。皆黒塗にして、その形狭く長く、波を截りて走ること弦を離れし箭に似たり。逼りて視れば、中央なる船房にも黒き布を覆へり。水の上なる柩とやいふべき――
唐突な暗誦。
『即興詩人』。
北欧デンマークの童話作家アンデルセンが書いた恋愛小説の森鷗外訳の小説だ。
鷗外の雅文調の名訳に導かれるように、かつて舞台のイタリア各地を聖地巡礼する文学者たちが絶えなかったという。
「水の都」と題された、ゴンドラを水上の柩に例えるそのくだりは、センチメンタルを厭う泊愛久にはふさわしくないように思われた。
しかし、そのくだりを選んだ理由は、もしかしたら、かつて私がヴェネツィアでゴンドラをゆりかごにして永遠にまどろみたいなどと、ぼやいていたのを覚えていたからかもしれなかった。
課題の多さに辟易していての現実逃避で、思わず吐き出した言葉。
それにに由来しているのかもしれない、などと、願望を確定にしてしまう。
また、自分によいように解釈してしまった。
でも、きっとそうではないかという自信もある。
私は、ソファに置かれた本、『即興詩人』を胸に抱き、彼女の暗誦に聞き惚れた。
朗々とした彼女の声は、ラウンジの喧騒の中で、サークルのテーブルの辺りだけ、別世界に変えてしまった。
和やかなお茶の時間、その生ぬるさに抗議するような響きのようでもあった。
彼女は、その生ぬるさを否定していたわけではない。
まったりとした中でこそ、自由なやりとりができることもあるのだと、わかっていた。
それでも、その時の彼女は、鷗外を借りて場を乱さなければならなかったのだ。
暗誦を終えると、彼女は、何事もなかったように立ち去っていった。
彼女の暗誦する姿は、その後しばらくまぶたから離れなかった。
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