第18話 文の京
自分が遅刻しているのだということに気がせいて、足早に階段を下りる。
地下一階には、受付カウンターを中心に、書架と閲覧スペースが広がっていた。
文の
読書相談や登録などの受付カウンターの上には、鷗外のひときわ大きな肖像切り絵が掲げられている。
町の図書館としてしっかりと機能しているのだろう、老若男女、さまざまな利用者人がそこにはいた。
おしゃべりに興じるでもなく、それでいて無機質な沈黙ではなく、知の園で憩う人びとの息遣いが聞こえてくるようで心地良かった。
「え、と、鷗外コーナーは奥の方だったかな」
私は図書館の案内を確認すると、フロアを進んでいった。
図書コーナーの奥に突き当たる手前、左手の一角が小さな庭になっている。
サンクンガーデンと呼ばれる地階に設けられた坪庭だ。
地下でグリーンを目にすることができるというのは、なかなかよい仕掛けだ。
ガラス窓越しであっても眺めれば、樹木の緑に、読書で疲れた目が安らぐに違いない。
鷗外ゆかりの沙羅の木が植えられているが、今は季節はずれで花は咲いていなかった。
夏椿とも呼ばれる沙羅の木の可憐な花が咲くのは、六月下旬から七月初旬にかけてだ。
品のよい小ぶりの椿を思わせる白い花。
小ぶりの白い花は、くちなしへとイメージがつながっていく。
くちなしは、ガーデニア。
ガーデニアは、彼女の花。
サンクンガーデンの右手に、森鴎外の関連コーナーが展開されていた。
全集から、評論、随筆など、時を忘れて鷗外とじっくり向き合うことができるスペースだ。
コーナーの一隅に、人々を見守るかのように、羽織袴姿の鷗外が立っている。
等身大のペーパークラフト。
なかなか見事なものだ。
「いないな。怒ったかな。呆れたかな」
待ち合わせの場所に、彼女はいなかった。
腕時計を見ると、約束の時間を30分ほど過ぎていた。
学生時代は、30分遅れは、わりとよくやってしまっていた。
そういう知り合いも、少なからずいた。
それで、ついやってしまうのがなおらなかった。
社会人になってからはさすがにそこまでのことはしなくなったが、学生の頃は、遅刻が相手の時間を無駄に使わせていることだとわかっているのに、なぜか、許されるような気がしていた。
読書をしてれば小一時間くらいはすぐにたったので、待たされても自分は気にしなかった。
泊愛久は、いつも時間通りだった。
時間にルーズな相手を、せめるでもなかった。
こんなこともあった。
待ち合わせの屋根付きのバス停のベンチに、文庫本片手に時間をつぶしている彼女の姿を遠くから見つけると、申しわけないという気持ちと、怒って帰ってくれた方が彼女に申しわけないという気持ちにならないからよかったのにという身勝手な感情に支配された。
「ごめん、寝過ごした」
遅刻してきた私に、文庫本から顔を上げて彼女は、何事もなかったかのように、
「ああ、もうそんな時間だった」
と、ひと言。
「これ、真帆子が面白かったって言ってたやつ。今、三分の二くらい読んだとこ。もう少しで読み終わるから」
文庫本の背を見せて、彼女が言った。
細長い骨ばった指の先の爪は、オパールのような光沢。
ネイルはしなくても、手入れは怠らない爪だ。
私に拒否権はない。
その後30分ほど、屋根付きのバス停のベンチに寄り添って腰かけていた。
通り雨が、簡易な作りの屋根を激しく打つ音に、屋根が壊れるのではないかと見上げて身震いした。
彼女は、雨音など聞こえないかのように、静かにページをくっている。
雨の轟音とページをくる乾いた音。
ページをくる彼女の指先を見ているうちに、いつしか雨音が気にならなくなっていた。
二人きりで水の底に沈んでいるような静けさが、辺りに漂っている。
「雨雲がきてるみたい」
「傘持ってない、どうしよう」
「降り出す前に駅まで走ろう」
ふいに、高校生くらいの若い女の子たちの声が聞こえた。
記憶の淵からもどると、私は、今一度、鷗外コーナーに彼女を探した。
いなかった。
携帯を取り出して確認すると、「先に行ってる。銀杏の木の下で」と、彼女からメールが入っていた。
「鷗外記念館の庭の銀杏の下、あそこの下ってカフェのことかな」
私は携帯を仕舞うと、フロアを一回りして階段を上っていった。
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