エピローグ

 南北線を利用したので、今日は、弥生キャンパスから歩道橋を使い本郷キャンパスへと渡る。

 渡り終えると、構内をぶらぶらしながら、待ち合わせの場所へ向かう。


 明らかに学生には見えない、散歩中と思われる人も、キャンパスにはいる。

 かくいう私も、卒業生でもないくせに、都会のオアシスのような水と緑のあるここへは、時折、本を片手に訪れる。


 三四郎池のほとりのベンチに腰かけて、季節の移り変わりを映す樹々や花を眺めながら、コーヒーショップでテイクアウトしたホットコーヒーを飲む。


 待ち合わせの時間には、まだ少し間がある。

 珍しくゆとりがあって、今日の私は遅刻をせずにいた。


 二人の作品が載った新文芸誌。

 発売後初めて、今日、会うのだ。


 何もかも超越しているようなところがあるかと思えば、些細なこだわりで全てを台無しにしてしまったり。

 彼女との日々のことは、痛くて、忘れられなくて、捨てられない。

 「プラトニックペイン」は、彼女からもらった痛みを芯にして書き上げた。

 ノスタルジー。

 私の作風だとされる感傷的な部分を、でも、彼女は嫌いではないようだった。



 読後感はひと言、「読んだ」。

 手にして目を通したという事実を告げるそれは、肯定の表現。


 ベンチの隣りに、彼女が座った。

 鳥の声も、人の声もない午後。


 「久しぶり」

 「久しぶり」


 挨拶の木霊が、空に吸い込まれていく。

 どちらからともなく立ち上がって、歩き出す。


 風が通り過ぎていく。

 二色ふたいろのストールが舞って、絡まって、なびく。


 重厚な校舎とは対照的な、ガラス張りの建物が見えてきた。

 建物の中には、大学の研究活動から生まれた商品やオフィシャルグッズが並んでいる。

 時折訪れて、新しいものはないかと見るのが楽しい。


 研究会に入るほどの蓮の花好きの知り合いから、ここに大賀蓮の香りをベースにしたオードパルファムがあると聞いていたので、立ち寄って香りを試すことにする。


「ガーデニアはないの」

「ここのは、ロータス」


 彼女はそれを聞くと、香水には興味なさげに、発掘された遺跡の絵葉書を手にとった。

 それから、博物館関連の図録、それも重そうながっしりしたものを選んで、ぱらぱらとめくり始めた。


 私などそこにいないかのように、読みふけっている。


 私は、その一心不乱な様子に見惚れている。


 大賀蓮のオードパルファムを、試し紙のムエットにつけて、ひらひらと香りをふりまきながら。


 浮遊している香りに囲まれて、彼女と私は静止画像になった。


 ふいに、それを打ち破りたくなって、彼女の鼻先にムエットを押しつけた。


 彼女は一瞬目をしばたたいたが、一呼吸してから、私の手首を握ってムエットを奪い、今度は私の鼻先に押しつけた。


「鐘の音が聞こえる」


 彼女のつぶやき。


 清かで心に残る香りは、寺院の鐘を聴いた時のように、すっと鼻腔を抜けていった。


 





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