第8話 さよなら紅茶と蜜談の日々

 こうして、サークル名まではスムーズに決まった。

 サークル名が決まった安堵感からか、私は、急に眠くなってきた。


「眠いんだったら帰ろう」

「だいじょうぶ、ちょっと飲み過ぎただけ」

「酔っぱらいをおぶって帰るほど、親切じゃないんだけど」

「おぶわなくていいし、水たくさん飲んだら、酔いもさめるから、帰らなくていいよ」

「いいよじゃなくて、さ」


 彼女は手を上げて二人のコップに水を注いでもらってくれた。

 

「飲んで」


 彼女にコップを持たされて、私は水を飲んだ。

 アルコールでほてっていたのどを、冷水が落ちていく。

 のどが痛い。

 もしかしたら、風邪をひいたのかもしれない。

 私は、水を飲み干すと、少しむせた。


「酔い醒めた? 終電逃したくないから、そろそろ帰るけど、どうする」


 どうするも何も、私だって、自宅まで歩いて帰るつもりはない。


「帰る。また、連絡するから、準備しといて、原稿」


 最後の一杯の水が効いたのか、足元もふらつかず、私は彼女と一緒に店を出た。


「じゃ、気をつけて」

「あ、引越しいつ? 手伝いに行こうか」

「ありがとう。手伝いはいらない。うち、あんまりものないから」


 彼女の下宿先は家具付きだったので、着替えと本くらいしかなかった。


「そっか、そうだったね」


 あの生活感のない部屋で、借りてきた猫のようにかしこまって文学の話をしたり、サークル誌の原稿を読み合って忌憚ない彼女の意見に落ち込んだり、ここはいいねと言われて飛びあがって喜んだり、ポットでいれた紅茶の香りにいつまでも浸っていたりといったことは、もう出来なくなるのだ。


 甘くて濃くて夾雑物きょうざつぶつのない密度の高い時間は、社会人になってしまったら、きっともう、二人には訪れないだろう。

 そう思うと、もう一度だけ、彼女の部屋に行ってみたくなった。

 言い出そうとしたけれど、その前に彼女は改札をくぐっていた。


「またね」


 そう言って彼女は、髪をまとめていたバレッタをとった。

 ホームに入ってきた電車の風にあおられて、長い黒髪が舞い上がった。

 毛先まで艶めいて舞い上がってから、髪はふわりと彼女の肩を覆った。

 彼女は、くるりと私に背を向けて、電車に乗り込んだ。

 私は、自分の耳元で遊ぶ茶味がかったくせっ毛を指でいじりながら、電車が見えなくなるまで見送った。

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