第15話 幅広ビロードリボンの薔薇

 引き出しの奥にしまってあった彼女からの絵葉書を手にして、私はそろそろ始めないと、と机に向かった。


 都内の閑静な住宅街にある自宅は、幹線道路から少し入ったところにあるせいか、ふだんは朝の小鳥のさえずりや、夕方犬の散歩で挨拶を交わし合う人たちの声、郵便や宅配便の車の音以外、静かなものだった。

 二階の自室の窓からは、小さいながらも調えらえた庭の緑が、疲れた目を癒してくれる。春には桜が、夏にはさるすべりが、秋には柿の実が、冬には時おり積もる雪が、季節の彩りを添える。空気の澄んでいる日には、遠くに富士山が霞んで見えることもあった。

 気晴らしに外へ出れば、じきゆるやかな川が現れ、土手のサイクリングロードを行き交うジョギングやサイクリングの人々のカラフルなユニフォームに、はっと目が覚めることもあった。


「ここにないのは、海だけ」


 私は、庭木の緑を揺らす涼やかな風に、絵葉書をひらひらさせて、息を吸い込み、原稿に向かった。

 広報誌に掲載されて、それが評判を呼んですぐに出版へとなどと、どう考えてもそう簡単にはいかないだろう。

 海都社の波紋屋ルカが、編集者として何らかのつてを持っていたとしても、見込みがあるかどうかはっきりしないものに、つてを使うといった、うかつなことはしないだろう。

 こうした成り行きで原稿が形になっていくというのは、ありうることなのだろうか。ゼミ友編集の井間辺和子に、それとなくきいてみたい気持ちが湧いてくる。でも、うまく名称諸々を変更して語ったとしても、きっと自分のことだとばれてしまうだろう。編集者は、人間の機微に特別に繊細なセンサーを持っているのだから。

 私は、思いとどまると、原稿を机に広げた。


「がっつりあか入ってる。間に合うかな」


 まずペンを持って目を通して、手直しはパソコンでして、添付ファイル送信でいいかな。

 私は打ち出しの原稿をぱらぱらとめくりながら、締め切り日までの作業過程を頭の中で組み立ててみた。


「朱をそのまま受け入れればいいってものでもないし。あ、でも、今回はこの通りに直した方がいいのかな」


 今さらながら、学生ノリのままの自分に嫌気がさす。

 わずかな望みを手にするということは、こうまで自分が揺らいでしまうということなのか。

 始める前から、これではだめだ。

 時間が無いなどと言っている場合ではない。

 迷うのなら、両方やってみればいいだけだ。


「無になって、まずは、やってみるべし」


 自分で自分を茶化しながら、私は意を決する。

 幸い、父は関西方面へ出張、母は向こうにいる友人と観光してくると出張に同行していて、二人ともちょうど一週間いない。

 冷蔵庫には作り置きの料理が数種類、冷凍庫には食材が行儀よく収まり、牛乳とミネラル水と炭酸水とアルコール類がラックに並んでいる。パンもパスタもあるし、レトルト食品も常備されている。サラダ野菜やフルーツなどだけ買い足せば、買い出しに遠出しなくてもこと足りる。


「チョコレートあったかな。ビター。カカオ率高めの」


 頭を使うと、ものすごくチョコレートが食べたくなる。カカオホリック、チョコホリック、と、学生時代に泊愛久とまりめぐにぴしゃりと指摘されたことがあった。彼女は、指摘はするけれど、止めはしない。


 バレンタインには、幅広のこげ茶のビロードのリボンで薔薇を象ってラッピングされた小箱が、私のショルダーバッグに入れられていた。

 リボンの薔薇でほとんど隠れてしまっている小箱の包み紙は、老舗ショコラティエのものだった。

 美しく咲く薔薇をほどくのは忍びなく、私は気付かぬふりをして、小箱をそのままバッグに入れておいた。

 薔薇は、まだ、私の部屋のクローゼットで咲いている。


 キッチンで食料チェックを済ませると、私はコーヒーをいれた。

 それから、マグカップとビターチョコのタブレットを持って部屋にもどり、


「じゃ、始めよっか」


 と、区切りをつけるように誰にともなく声をかけて、私は作業に取りかかった。

 

 

 

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