第12話 レモネードの涙目
海都社を後にして、あまりに急な展開に気もそぞろで歩いているうちに、曲がる場所を間違えて気がついたら駅から遠ざかっていた。
「なにやってるんだろ、私」
コンテストに入賞したわけでもない。
文芸誌にスカウトされたわけでもない。
たまたま目に留めてくれた、公募部門の編集者に、声をかけてもらっただけなのに。
うかれているのだろうか、知らないわけじゃない街で道を間違えるなんて、隙だらけの体たらくだろう、今の私は。
こんなところは、彼女、泊愛久には見せられない。
脱力感から、そのまま家に帰る気になれず、目についたブーランジェリー併設のカフェで軽食をとることにした。
すっきりしたかったので、レモネードを頼み、ブリオッシュとミューズリーボウルとリヨネーズサラダを注文した。
状況的にすぐにでも作業を始めなければならないのだが、空腹を満たしながら少し浮ついた気持ちを落ち着かせようと思った。
ちぎったブリオッシュで、サラダにのっているポーチドエッグをすくって口に運ぶと、とろりとした卵のやわらかさに和む。
「おいしい。にしても、一週間、か」
この短期間の締切に向けて作業を始めたら、他に何もできなくなるような気がする。対外的な連絡のやりとりも、作業に夢中になっていると、疎かになってしまうだろう。
それを思うと、やはり、海都社との状況を、会社の名前を伏せてある程度は彼女に知らせておいた方がいいのではないだろうか。
再会したのでなければ、黙って作業を進めればいいだけのことだ。だが、今はお互いを高め合うことに邁進しているのだ。
彼女、泊愛久とのかつての日々は、社会人になってほどなく会わなくってしまったものの、その会っていなかった時間が瞬く間に埋まるほどに、濃やかな心情のやりとりがあったのだ。
レモネードに添えられたくし型のレモンをきゅっと絞る。
はじけたレモン汁が目にしみる。
爽快レモンの涙目に、浮かんでくるのは、社会人一年目の二人の姿だった。
就職して最初の一年が終わろうとしていた頃、私は意を決して彼女に提案した。
コピー誌でもいいから、とにかく一つは形にしよう、と。
不十分なものを形にするのはいやだと、後に残すのは不本意だと言い出すのではないかと心配したが、意外にも彼女は、あっさりと承諾した。
私は、こつこつと書き溜めていたメルヘン風な小説を、彼女はまだ小説は書けないからと書評を寄稿した。
それが、サルビアとガーデニアの最初で最後の1冊となった。
文芸パレスに直参はできそうになかったので、後輩経由でサークルに委託参加させてもらった。ごく少部数だったので、早々にはけたらしいが、できれば売り子として購入者に手渡したかった。
完売したと彼女に伝えたが「そう」、と抑揚のない声で返事が返ってきただけだった。もともとがそういう性質なので、その時はあまり気にしなかった。
ところが、その頃から、連絡が途絶えがちになった。
彼女は愚痴を言わない分、体調に出るタイプだった。
夏を過ぎた辺りで急に音信不通になったのに胸騒ぎを覚えて、私は彼女の故郷へ向かった。
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