第36話 若さに悔しいって思ううちは、まだ若いってことじゃない
「根津神社は、日本武尊が、この地に創祀したと伝わってるそう。今から千九百年余り昔に」
「すいぶん古いんだ。由緒正しいんだね」
彼女は、根津神社と徳川家との関わりや明治維新後のことなどひとしきり神社の由来と歴史を述べて、それから、大きく伸びをした。
「あー、生き返る。神社の空気は、植物の呼吸の緑の気いっぱいで、清々しい」
やけに説明的な言いまわしだ。
井間辺和子はそんなに饒舌な印象はなかったけれど、仕事を円滑に進める上でのスキルなのだろうか。先まわりして、説明して、先方から攻撃を受けないように準備万端で会話する。とにかくわかりやすく、
最初がずれてしまっていたら、いつまでたっても土台を打ち壊し合うだけになってしまう。
「つつじ祭りの頃って、端午の節供も近いから、菖蒲も売ってるのよ」
両手でカップを抱えてほうじ茶をひと口、ふた口飲んでから彼女は言った。
「菖蒲って、菖蒲の花を売ってるの」
「ううん、菖蒲湯にする菖蒲。サトイモ科のショウブ。花の方のは、アヤメ科のハナショウブ」
「ああ、そういえば、きいたことがある」
「尚武に通じるから端午の節供にというのは武家社会が成立した中世から。すらっとして刀に似てるでしょ、菖蒲の葉、だから邪気を祓うという意味も出てくる。つよい香りで災厄や病を祓うために菖蒲湯にする」
「そういうのも、読んだことあるかも」
「国文科だったら古典で読んでるはず」
「卒論近代文学だったから」
「言いわけにならない」
井間辺和子は笑いながら言った。
「縁日が立つのよね。植木屋さんとか、屋台の食べもの屋さんとか、なまず入り金魚すくいなんかもあるの」
「にぎやかそう」
「つつじ苑を見てまわる人と、縁日を冷やかす人と、社殿の特別公開の見物客と、そういえば真帆子は東京っ子なんだから、知ってるんじゃない、来たことあるでしょ」
江戸っ子と言わないところが、やはりきっちりしてる。
実際おおよそ江戸っ子らしいところがないことだし、東京っ子と言われた方がしっくりくる。
「子どもの頃は来たかもしれないけど、あんまり覚えてないな。つつじまつりの頃って、ゴールデンウィークとかぶるから、旅行に出かけたり、連休を当て込んでバイトしたり、サークルの新勧合宿とかに行ってたり、けっこう忙しくしてて都内にいないことも多かったかも」
「そっか。でも、そうかもね。歴史好きか、神仏を研究してるか、寺社仏閣巡りが趣味でないと、お祭りだからといって、自分の地元でない神社の縁日には来ないかもね、由緒があって有名でもね」
「シルバーホビーって言ってたな、そういう趣味のこと。子どもっぽかったな、そうやってくくるのって、黒歴史だよ、そういうこと言ってた自分って」
「若いとそんなもんじゃない」
「若い、そっか、もう若い範疇じゃないもんね」
「悔しいけど、ね」
「若さに悔しいって思ううちは、まだ若いってことじゃない。自分だって、まだまだイケるって思ってる」
「心はね」
会話はそこで途切れて、二人で顔を見合わせて笑った。
この笑いは、地に足のついている笑いだ。
「若さだけではクリアできない役割をしなければならないんだけど、まあ、これがパワーいるのよね」
くだけた口調に疲労がにじんでいる。社会でリアルを生きている井間辺和子は、頭の中のリアルを文字に写し変えて生きている私のような創作者と、一般常識社会の人々とをつなげる立場なわけで、それは、相当大変なことだろうと想像がつく。
まだ、作家の手前で足踏みしてるだけだけれど、わかる。これが、本当に作家になって、地から足が離れてしまったら、どうなってしまうのだろう。なる前から、そんなことを考えるのもせんないことだけれど。
「仕事、たいへんだよね、中間管理職の中間管理職みたいな感じ、今って」
「そうだねぇ、役職が付いてれば、もうちょっと采配をふるえるんだけどね。今日みたいに、著書をお願いする予定の先生にお会いする時には、もう一段アップした肩書が欲しいと思う。そういうの好きじゃないけど、相手は肩書がない者が行くと、自分が見下されたとかって思っってしまうことがあって。そうなると、ややこしいのよ」
「プライドをえぐられるってこと? 」
「うーん、そうねぇ。まあ、やっぱり、悪いのは時間不足かな。特色ある研究をされてる方は話好きな人が多くて、もしくは、無言、時々ぽつりなんだけどね。いずれにしても、じっくり伺うことができれば、貴重な説や面白いためになる話を伺えるのよ。とっても面白いんだけどね。なにしろ人手不足だし、私一人で両手両足で抱えきれないくらい担当してるし、そうそう時間はとれないのよ」
「週刊誌とか、出してないよね。それでも、そんなに忙しいの」
「そうなのよ、前は、そうでもなかったんだけど。新卒をとらない時が何年かあって、新人さんの仕事まで全部引き受けてたから、今になって引き継ごうにも、一度に全部はできないから、結局、いつも手一杯。それに、派遣、パート、外部委託、様々な勤務形態があるから、その橋渡しとか、そこで溢れた案件とか、私が調整するしかなくて」
いつもおっとりと理知的な井間辺和子らしくなく、今日は、おしゃべりだ。
勤務時間外だからかもしれない。
それか、部外者に話してすっきりしたいのかも。
守秘義務には最新の注意をはらって、彼女は話し続けている。
「忙しい時って、どんな風に仕事こなしていくの」
「そうね、うちは、週刊誌はだしてないけど、ムック本は出してるのよ。そういう時は、とくに忙しい」
「ムック本って、雑誌みたいな形してるんだよね。一冊まるごと特集記事みたいな。マガジンとブック、雑誌と本の中間ってことになるんだよね」
「文字通りに言えばそうね。まあ、雑誌風な単行本っていうことになるんだけど。これなんかがそう、うちで出してるムック本」
携帯の画面をフリックしながら、説明をしてくれる。
大判で、少し厚みがあって、カラー写真多めで、目を惹くようなつくりになっている。
「載ってる情報は、ものすごく深いというわけではないけれど、専門家に監修してもらうものもあるし、読めば、一通りのことがわかるようになってる」
「歴史ものなんか、わかりやすくていいよね、ビジュアル多いと」
「学術資料を基に描いてもらうにしても、画像資料が残ってなかったりするから、それこそいろんな資料を擦り合わせて、識者の話をきいて、でも最終的には後世の我々の想像力に任せられて、それでまたひと騒動あって、ようやく形になるのよ」
井間辺和子は、さらに忙しい時の様子を、ほうじ茶をすすりながら語った。
「まず、ゲラに目を通さなければと思って、未開封の封筒の束から一番下になっているのを取り出して、コーヒーを口に含んで目を閉じて精神統一をして、ゲラを読み始めるの。一連の作業の流れで、ぱぱっと目を通していく人もいるけど、私はちょっとした区切りを入れた方が集中できる。ざっと目を通してから、指示、注釈、引用元の確認をして、そこでいったん手をとめてコーヒーを飲んでから、もう一度チェックをする。時間のない時はバイク便に任せて印刷所にまわすこともある。前倒しで予定を組んで早めの進行にしているはずなのに、なぜか毎回ぎりぎりになってしまう。ぎりぎりでも間に合えばそれでよしってことで」
息もつかずに一気にしゃべる彼女に、圧倒される。
実際は、もっとこまごました用事も入るのだろう。
私が言葉をはさめずにいると、彼女は続ける。
「校了間際の目の回る忙しさは、何度経験しても慣れない。この仕事に向いてないのかと落ち込むことは何度もあったけど、生来の性格なのかな、本が出来上がってくれば、綱渡りだった胸がしめつけらえるような気持ちも、すかっと抜け落ちる。忘れるというのとは違う。正しく抜け落ちるというのがぴったりなのよ」
二杯目のほうじ茶を注ぐと、ほっ、と息をついて、次に彼女は、私にこんなことをきいてきた。
「そういえば、真帆子、海都社って知ってる」
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