第40話 文学料理研究会
全てを仕上げるのに、寝食を削って取り組んだ。プロであれば、よほど要領よく計画性のある者でない限り、それが日常になるだろう。諦めていないのに、諦めたふりをして、自分をごまかしていた日々に別れを告げるために、私は、プロの日常を先取りする。
そうした意気込みで編集とやりとりしながら、なんとか書き上げた。
タイトルは、「
学生時代の思い出をもとにして書いた小説だ。
あの学生時代の文芸サークルでの日々が、私に創作の「はじまり」を授けてくれたのだ。
感傷に浸りたいわけではないが、プレコンテストの作品の舞台でもあるし、泊愛久と過ごした日々の痕跡を辿るのは、今日のような日には悪くない。完成した小説を読み返しているうちにふと思い立って母校のキャンパスを訪れることにした。
学生時代は、峻烈なやりとりが時にあったが、それすらも心地よく残っている。
今日の集いのような、素をさらけ出していいのか、探り合うのがいいのかわからない曖昧さもあったが、同世代であることで、だいたいの事情がのみこめて、そこから先は、表現するものもいれば隠すものもいるといったことが、それぞれに任されていた。
浮遊している過多な情報に汚染されていない時代だった。
最も、どの時代でも、適応できたり、できなかったりは、ある。
ひとくくりにされるのを、私たちは嫌った。
表参道駅で乗り継ぎを確認して、電車に乗り込んだ。
携帯に何件か着信があったが、見る気がしなくてそのままにした。
リアルで生きる自分と、携帯のやりとりで生きる自分と、ネットの中に構築した人格で生きる自分。
増殖する自分、でも、脳は一つだ。
疲れるはずだ、とため息をつく。
キャンパスの最寄り駅に着いた。
学生たちに混ざって降り、階段を上り、地上に出る。
こざっぱりとした学生が増えたなと思い、歩き出す。
私の通っていた大学、そして多くの時間を過ごしたサークルは、まじめさと、くだけたところとで、ゆらゆらとゆらいでいた。頂に君臨する学舎ではなかったことで、どこかしらに逃げ道がある、ほっとできる場所だった。
そんな学生時代のとりとめのない遊びの一つに、「文学料理研究会」があった。
思いつくままに研究会の名乗りをあげて遊ぶのが、その頃所属していた文芸サークルでのちょっとした流行だった。
流行をよしとしない泊愛久だったが、気まぐれに参加することもあった。
たまたまその頃、生活に根ざすというのを活動のモチーフにしていたからなのか、あっさりと参加してくれた。
エプロン姿が見られるのかと期待したが、それはすぐに否定された。
彼女は、大判のスカーフをさっと腰に巻いた。
スカーフは木版プリントのバティック柄で、サロン姿も優雅な身ごなしのインドネシアの若い娘さんのような出で立ちになった。
「なにを作るの」
彼女の声に、後輩たちがざわめいた。
他人に期待をこめた声など発しない彼女が、微かにだけれどその声に興味を示す色合いがあったのだ。
「『細雪』のぺリメニ」
「ぺリメニってロシア料理ですよね、先輩」
後輩の貝原沙羅が声をかけてきた。
「谷崎潤一郎の『細雪』って言ったら、桜を眺めながらお座敷で和食じゃないんですか」
その言葉をきっかけに、
「そうそう、京都にお花見に出かけてくのよね、四姉妹で」
「お見合いするのよね、お見合いって面白そうだった」
と、口々に後輩たちが言い始めた。
それは、イメージとしての『細雪』だった。
映画のハイライトシーン、京洛の花盛りの枝垂れ桜と四姉妹の華やかなお花見のそぞろ歩き。四姉妹の個性をそれぞれを際だたせる着物姿。それがあまりに印象的で、それが主だった場面だと読んだ気になっているのだろう。
『細雪』は、作品が世に出るまで紆余曲折があった。その事情は、近代文学史を学べば、知ることができる。映像の魔法で日本の美しさが際だって描かれているような印象があったが、小説では当時の関西に根付いていた西洋文化もふんだんに登場した。何かと当局に目をつけられるところのある内容だったせいか、雌伏の時を経ての発表だったのだ。
そんなことは文学部であれば当然知っているのだろうと思っていたが、どうもそうでもないことがたびたびあった。自分は理系ではないから、受験勉強で数学をやりたくないから、何を学んでいいかわからずになんとなくといった曖昧な理由で文学部にくる学生もわりといた。いちいち指摘するのも野暮な気がして、スルーしていたが、時に、どうにも、もやもやが晴れないことがあった。そして、そんな時、なぜか彼女をまともに見ることができなかった。
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