第28話 たった今枝先で開いたばかりの新鮮な花の香り
シーズンごとにシックに変化するディスプレイが目をひくアクセサリーショップの前を通りがてら、ショウウインドウに映った姿で素早く身だしなみをチェックする。
それから時計を確認して、時間つぶしに立ち寄ったのはテラスガーデンカフェのあるファッションビル。
かなり早めに海都社のある表参道駅に着いたので、ファッションビルに立ち寄って、上階の日本茶専門店でひと息つき、ギャラリースペースをぶらぶらしながら、エントランススペースまで降りてきた。
エントランス脇のスペースには、週替わりで様々なファッションに関する出店がされている。
今日は、インド更紗と麻の手織りストールやスカーフが、カラフルにディスプレイされている。
柄ものや派手な色は見るだけでいいかなと思いスルーしようとしたが、中に一つ、薄水色の涼やかなリネンストールが目に入ってきた。
クサギで染めたきれいな水色。
結局、買ってしまった。
今日のスーツには合わないというのに。
というか、ペールトーンのブルー系は自分の持っているワードローブにはしっくりこない。
「もう一枚、買おうかな」
私は、このストールを彼女にプレゼントすることにして、自分用にもう一枚買うことにした。
鏡の前であれこれ当てて、散々迷った末に、淡い暗赤色の茜染のストールにした。
このストールもスーツに合う色ではないが、黄昏時の昼間の喧騒が遠くなっていく感覚が蘇る夕映えの色は、心を落ち着かせてくれる。
しなやかな手ざわりを楽しみながら、そろそろかなと思い建物を出た。
ファッションビルから少し先のわき道を左に入り、店舗の並ぶ通りを抜けて、突き当りまで歩き、小原流ビルを通り抜けて、海都社の入っているビルへと向かう。
裏道なのか自動車が次々と通り抜けていくのをよけながら、到着した。
私は、背筋を伸ばして、海都社の入っているビルの入り口をくぐった。
スーツ姿の社員や来客と思しき人々が数名とすれ違った。
と、花の香りが鼻をついた。
柔軟剤のフローラルではなく、たった今枝先で開いたばかりの新鮮な花の香り。
甘くて、目を閉じたくなるように艶で、清かな香り。
クチナシの香り。
ガーデニアの芳香。
「
思わず名前を呼んでしまった。
名前で呼んでも、彼女は返事をしないのに。
私は階段を駆け下りて、辺りを見まわした。
慌てて「
「まさか、ね」
そうつぶやいた時だった。
メール着信があった。
彼女からだった。
今回は時間に余裕をもって来ていたので、歩道の端の樹の下でメールを開いた。
そこには、「待ってる」とだけ書いてあった。
「待ってる、ってことは、やっぱりさっきのは……」
私は、スマホを両手で抱えて胸元に押しつけた。
すると、スマホが震えて着信を伝えた。
一呼吸おいて画面を見ると「博士と犬に会いに行く。アポなし」と彼女からのメッセージ。
私は、思わず微笑んでしまう。
「博士と犬って、猫好きなのに、どうしてまた」
しばし博士と犬のいる場所について思いをめぐらせる。
「博士と犬、か。アポなしってことは、多分、博物館か記念碑か銅像か。都内の犬の銅像で知られているのは、渋谷の忠犬ハチ公か上野の西郷さんの愛犬か、銀座の日本初のセラピードッグのチロリあたりだけど、博士と、ってなると、あそこかな」
気まぐれなんだから、と彼女の予測不可解さに和みながら、いつしか私はリラックスしていた。
不必要な緊張感は、対話において自己主張を妨げる。
もしかして、彼女は、私のことを慮ってメールを送ってくれたのだろうか。
また、都合のよい思いが頭をもたげてくる。
でも、それでもいい。
打ち合わせが終わったら、彼女に会えるかもしれない。
それだけで、気分は晴れやかになる。
そう、その時にきいてみよう、彼女がここに来ていたのか。
もし来ていたのなら、どういう理由で。
予感はある。
理由の予感。
私は、そこまで考えて、待ち合わせの時間10分前なのに気付いた。
慌てて所用が済んだら連絡すると彼女に返信した。
とにかく今は、目の前の案件に全力で立ち向かうことだ。
「笑顔を忘れずに」
私は、海都社のドアをくぐった。
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