エピローグ サラリーマンには戻れない
ノーラを助手席に乗せて夜の港をマスタングでドライブする。とは言っても距離は短い。月島埠頭から晴海埠頭までだ。
晴海埠頭に着いたので助手席のドアを開け、ノーラの手を握ってエスコートしながら夜景を指差す。夜景の真ん中にはネオンに彩られた橋が輝いている。
……復讐を誓ったあの日から、今の今まで、俺の目には色褪せた世界が映っていた。だが、今は世界が輝いて見える。そう、世界は色褪せたりしない。世界はただあるがままにあるだけなのだ。色褪せて見えていたのは、俺の目が曇っていたから。……それだけの事だ。
「素敵ね!夜のレインボーブリッジって本当に綺麗だわ。」
「そうだな。マスタングに恋人を乗せて、レインボーブリッジをドライブするのがサラリーマン時代からの夢だった。後で橋を渡ってみようか。」
俺とノーラは並んで波止場に立ち、二人でレインボーブリッジを眺めた。夜風が潮の香りを運んでくれるのが心地いい。
穏やかな笑顔で輝く橋を眺めていたノーラだったが、しばらくしてから呟くように聞いてきた。
「……ねえ、灰児。これからどうするの?」
「……それは良子次第だ。」
「えっ!?」
「もうわかってる。ノーラが良子だって事は……」
「…………」
「良子が俺を捨てた訳じゃないって事がわかってからな、色々考えたんだよ。権藤の話じゃ、取り憑いた当初、アイリは貨幣の概念すら理解していなかったらしい。なのにノーラは俺に取り憑いた時から妙に人間臭かったよな? それに語学に堪能で博識、しかも好物は最初に食べる主義。……極めつけがミレーの絵だ。ネットで偶然見つけた絵が良子の大好きだった絵だなんて、いくらなんでも出来すぎてる。」
「フフッ、そうね。いくらなんでも出来すぎよね。」
「キミは最初っから正体を教えてくれていたんだ。野良だからノーラ。そして忍野良子だから野良、だろ?」
「ええ、そうよ。……久しぶりね、灰児。」
美女ソンブラ、ノーラの姿が変わってゆく。俺が、俺が脳裏に何度も思い浮かべた良子の姿に。
……魔剣ノーラが俺と極端に高い親和性を持っている理由は、その正体がかつての恋人、良子だったからだ。
「良子、アメリカで何があったんだ?」
「10年前、量子物理学の研究員だった私に、文科省から未知の異次元生命体の研究を手伝って欲しいとオファーがあったの。最初は冗談かと思ったんだけど、詳しい話を聞いて、真面目な話なんだってわかったわ。自分で言うのもなんだけど、私は結構優秀だったし、天涯孤独の身だっていうのも極秘研究に携わるには都合がよかったんでしょう。」
「良子は家族の話をしないな、と思っていたが、俺と同じで天涯孤独の身だったのか。」
「孤児じゃなくて事故で両親を亡くし、育ててくれた祖父母とも死別していただけだけどね。研究期間は1年、どんな近しい人間にも事情を話してはいけないという契約だった。」
「それであの置き手紙か。言葉足らずだぞ、良子。"1年経ったら必ず戻る"とかいう文面にしといてくればよかったんだ。期間もわからず待たされる方の…」
「本当にごめんなさい。検閲はされるでしょうけど、研究所から手紙ぐらい書けると思っていたのよ。」
「オーケー、もう恨み事は言わない。研究所での話を聞かせてくれ。」
「研究所には一人の女性と、その女性に取り憑いた影が捕獲されていたわ。ソンブラではなくシャドウと研究者達は呼んでいた。」
ソンブラって呼ばれてるのはスペインで発見されたとされているからだ。だがソンブラを最初に発見していたのは、
「シャドウは初めて発見された人類以外の知的生命体。量子物理学どころか、物理法則を完全に無視した存在の研究に私は夢中になった。」
「それで俺の事は綺麗に頭から消えていたってか? どれだけ心配してたと…」
「あら、恨み事はもう言わないって言わなかった?」
苦笑しながら俺は話を促した。
「フッ、そうだったな。話を続けてくれ。」
「研究を始めて一ヶ月、研究所で異変が起こった。私も含め、みんな勘違いしていたのよ。"自分達が知的生命体を観察している"ってね。でも逆だった。"彼女達が私達を観察していた"の。拘束室から抜け出した魔剣と魔剣士は研究所を破壊、最後に残った私に選択を突き付けてきた。"ここで死ぬか、魔界を覗いてみるか、どっちにする?"って……」
「そして良子は魔界を覗く事を選んだ、か。……待てよ!じゃあその魔剣の能力ってのは!」
「……ええ。「始まりの王」と名乗ったその魔剣は、魔界とこの世界を繋ぐゲートを創り出す力を持っていた。魔界に送り込まれた私は、白と黒しかない世界をあてどなく放浪する事になったわ。」
「よく生きていたな。人間の良子は魔界に混入した異物な訳だろう?」
「それには訳があるの。とにかく、魔界はあらゆる概念がこちらとは違っていた。長い間、放浪していたような気もするけど、実は一瞬の事だったのかもしれない。そして、私は「静寂の王」と出会った。」
静寂の王!魔界最強と畏怖された、孤独な女王。今まで出会った王級ソンブラ達は皆、彼女をそう評していた。
「生き残れた理由はそれよ。私が迷い込んだのは静寂の王の領地だったの。彼女の領地にはどんな影も踏み込めない。足を踏み入れれば、死、だから。」
「……それで?」
「支配に飽き、強さに飽き、存在する事にも飽きようとしていた彼女は、異世界からの
「異文化コミュニケーションならぬ、異世界コミュニケーションか。コミュ力が高くてよかったな。」
「フフッ、みたいね。打ち解けてきた彼女は私に聞いてきた。"貴方はなぜ存在したいの?"って。私はこう答えた。"もう一度、逢いたい人がいるから"と。何が彼女の琴線に触れたのかはわからない。でも彼女が欲しかったのは強さでも眷族でも領地でもなく、"友達"だったのよ。」
孤独で最強の王が望んでいたモノは……友達……か。良子が省吾に語った言葉、王の真実。"並ぶ者なき至高の座は、永遠の孤独。見渡す限り、寂寥の大地が広がるだけ……"この言葉は静寂の王の心境だったのだ。
「……そうか。そういう事だったのか……」
静寂の王と忍野良子の間に何が起きたのかが、わかった。魔剣ノーラが影がなくとも具現化出来る理由も。魔剣ノーラはソンブラではあるが、人間でもあったからだ。
「ええ。静寂の王と私は友達になった。そして彼女は私の願いを叶えたいと考え、それは彼女の願いにも適っていた。この世界に帰りたい私、存在に飽き、誰かと共にありたい彼女。だから……私達は一体化する事にしたの。静寂の王と忍野良子が融合した姿、それが魔剣ノーラ、よ。」
研究所で起こった惨劇、だが忍野良子の遺体だけは発見されなかった。女王と良子の物語までは日米両政府もわからなかっただろう。それでも忍野良子の恋人だった俺をマークする価値はあると判断した。その役割を担ったのが細山田部長だったのだ。
「静寂の王と融合し、魔界から抜け出す力を手にした良子は、俺の元へ……帰って来てくれたんだな……」
「灰児には迷惑なのはわかっていたわ。……でも、私は……どうしても……」
「迷惑な訳ないだろう。ずっと影の中に同居してて、俺が良子に未練タラタラなのはわかってた癖に!」
ちょっと腹が立ってきたぞ!いくらヒントを出してたからって、気付かなけりゃどうするつもりだったんだ!
「灰児に気付いて欲しいような、気付いて欲しくないような、複雑な気分だったわ。私は人間でもソンブラでもない存在で、その事実を知る事が灰児にとっていい事なのかどうかもわからなかった。だから、曖昧な状態のまま、貴方の影として暮らしてきた。私って卑怯ね、貴方には何も伝えないまま、私の望み、"太刀村灰児と一緒に生きる事"だけを叶えてきたんだから……」
「まったく!俺の元へ帰って来てくれたのはいいが、なんて帰り方だよ!影に同居するとか無茶苦茶すぎる。俺に厭気が差したらどうする気だったんだ? 緑の紙一枚で他人に戻れる関係じゃないんだぞ!」
「私が灰児を嫌いになる訳がないでしょう? でも新聞紙をテーブルクロス代わりに使うのだけは止めてね? 新聞紙って清潔な訳じゃないし、インクが食器についちゃうから。あ、それから…」
「待った!そのあたりは継続審議にしてくれ。ノーラが良子だってわかっていれば、俺だって少しは考えて生活してたさ。」
「フフッ、じゃあ同居生活のルールは後で相談しましょう。灰児、わかってるとは思うけど、私とは絶対に離れられないわよ?」
やれやれ。秘密を持った上に、絶対離れられない同居生活を勝手に始めるとか、女は怖い。災難と言えなくもない状況なのに、まあいいかって思ってしまってるあたり、これが惚れた弱みっヤツかね?
「わかってるさ。さて、同居生活のルール作りも大事だが、これからどう生きるのかも大事だな。」
「あら、復讐が終わったら、サラリーマンに戻るんじゃなかったの?」
「無職の気楽さを覚えちまったからな。果たして堅気に戻れるものかねえ。」
これまでずいぶん殺してきたしな。陽のあたる場所に出るには、俺の手は血で汚れ過ぎている。
「せっかくアメリカ行きを計画してたんだし、予定は変えないでおくか。高飛びの必要はもうなさそうだが。」
「渡米の必要ある? 灰児の恋人はもうここに居るのに。あ、もうバレちゃった訳けど、灰児が私の足取りを追ってアメリカに行く前には…」
「わかってるよ。渡米前に自分の正体を明かすつもりだったって事ぐらいはな。そうなんだろ?」
「ええ。私の消息を辿る為に、灰児や権藤さんをイーグルサムと喧嘩させる訳にはいかないもの。高飛び用に航空券は手配してたみたいだけど、行き先はアメリカじゃなかったでしょ?」
指名手配されるのがわかってるのに空港に行くような間抜けな真似はしないさ。
「あれは高飛び用ではなくダミー用だよ。封鎖区の逃がし屋が本命の逃亡手段だった。ま、田沼先生が事後処理は上手くやってくれるだろうから、お尋ね者にはならずに済むだろう。良子、渡米にはもちろん目的がある。本場のネズミーランドで良子とデートするのが主目的、ついでに……」
「ついでに?」
「……始まりの王を追う。この世界を魔界と繋げたという始まりの王を……」
「始まりの王に会って、どうするつもり?」
「さあね。それは会ってから決めるさ。良子、また修羅場になりそうだが、付き合ってくれるかい?」
「もちろんよ。灰児の居る場所が私の居場所なのだから。ねえ、灰児。今さらなんだけど、紹介しておくわね。私と同じように彼女の事も好きになって欲し…」
「うむ!同居してみて
いきなり声が変わったぞ!ひょ、ひょっとして……
「え、え~と、貴方が静寂の王、でしょうか? 良子が大変お世話になったようで…」
「おやおや、えらく他人行儀な事を言うものだな。妾は堅苦しい物言いは嫌いだ。大体、もう何年も同居しておる仲ではないか。今まで会話は良子に任せておったが、戦闘の補助は妾がやっておったのだぞ?」
「いやいや、俺にとっては限りなくはじめまして、なんだが……」
「面倒くさい男じゃのう。ま、どっちもノーラではややこしいから、今後は妾をノーラ、良子は良子と呼ぶがよい。今夜はえらく力を消耗したがゆえ、妾はもう寝る。おやすみ、灰児。」
「……おやすみ、ノーラ。」
ややこしい関係、ここに極まれり、か。まあいいさ。形は違えど、両手に花、だ。
新たな同居人の存在まで判明し、精神の許容量が一杯になってきた俺は、気分を落ち着かせる為に一服する事にした。ポケットから煙草を取り出して咥えようとする俺に、良子が話しかけてくる。
「ねえ、灰児。唇って煙草を咥える以外に出来る事があるって知ってる?」
「教えてくれないか? 何が出来るんだ?」
目を瞑った良子は、ゆっくりと顔を寄せてきた。いいね、俺もそういう気分だ。
……俺はゆっくり良子と唇を重ね、十年振りのキスを楽しんだ。
~Fin~
無職中年血風録 ~魔剣物語~ 仮名絵 螢蝶 @kanaekeicyo
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