第48話 「疑念」

 薄く降り積もった白い地を蹴り、土と雪を攪拌しながら歩くトリムは一人、陽光を避けるように街の薄暗い路地へと入っていった。


「私は戻らない」

 そうフロワに伝えると、彼女は複雑な面持ちを見せたが、ゆっくりとその言葉の意味をゆっくりと咀嚼した後、彼女の元を去った。

「―――ついていかないの?」

 行くわけがない。あの女の元へ戻ることなど、彼女と自分にしたことを思い返せ。

影に震える腕を押さえ込む。この手に感じた身体を貫く感触。肉を裂き、彼女の心臓を貫いた時のあの光景は今もなお、彼女の瞼に焼き付いていた。身体を操られた時の焦燥と赫怒はなおも収まっていなかった。

「彼女はあなたを守ろうとしているのよ」

 守る?他人を傷つけてまで生きていたいなんて私は思えないの。

「誰も傷つけず生きていけるなんて傲慢だと思うけど」

「―――ハ、言ってくれるわね。何も知らないくせに」

トリムは路地裏に座り込んで、自身の内に潜む声に応える。声は彼女の心を抉り抜くように瀟洒な口調で語り続ける。

「あなたのことなんて知らない。けど、それはあなたも同じでしょう。あなたは彼女の、アルメンのことを何も知らない。違う?」

「それは―――」

 何も言い返せなかった。それでもこの身体に染みついた怒りは私の眼を曇らせる。多分、子供じみたことを言っているのだろうと自分でも理解していた。それでも。これは理屈の話じゃないから。

「それでも、あの女は母親であることをやめた。私を捨てたのよ」

 彼女に残っていた事実はそれだけだった。幼い頃に捨てられた故に、それ以上のことは何一つ分からない。いっそ喧嘩別れだったら彼女とて踏ん切りがついただろう。彼女の怒りが殺意にまで昇華されたのは何も分からないという恐怖故でもあった。

「それに、何も教えてくれないし。いつ何を聞いてもだんまり。それで分かってほしいだなんて無茶な話でしょ」

「まだ話す時じゃないと思っているんじゃない?」

「それが腹立つのよ」

「思春期ってやつね」

「はぁ?」

 清む声がせせら笑う。口調や話す雰囲気はどことなくトリムと同程度の年齢のように感じていたがそこにはどこか人ならざる存在故の厚かましさがある。

「いつかの夢からついてきてるけど、アンタ結局なんなの」

「今更?いつでも話せるのに話題にしないからてっきり受け入れてくれたモノかと思ってた」

「そんな余裕がなかっただけよ」

「そう」

「名前はあるの、アンタ」

「名前、そうねぇ」

 霜折れの空の下、背中から伝う冷気に苛ぐ身体を少し震わせながら丸まっている彼女は見下ろす地面に指を這わせる。露を飲み下した土は緩やかな曲線を描く。

「あるにはあるわ」

「随分勿体ぶるじゃない」

「こっちも色々と複雑な事情ってのがあるのよ。まぁ、そうね。ミササギとでも呼んで」

「ミササギ? 随分変わった名ね」

「まぁ、このサイクルにおいてはね。そんなことより、いつまでこんなところでウジウジしてるつもりなの。そろそろ日の光に当たりにいこうよ」

「別にここにいたっていいでしょ」

「ダンゴムシみたいなこと言ってないでさっさと動くの。フロワのことを追いかけるのよ」

「……それは、いや」

「どうしてよ」

「私もそうだけど、あの子だって、嫌だと思ってる」

 滑らかな曲線を描く指が止まる。吐いた息は白く地面に溶けていく。

「あの子、自分が刺されたってこと知ってるっぽいし。いくら時間を戻したとはいえ、戻ったのは外傷だけ。心までは巻き戻せないわ」

「彼女、そんなに弱いかしら」

「弱いとかそういう問題じゃないでしょ!刺したのよ!? それに彼女だって私に刃を向けたことを覚えてる。そんな簡単にいつも通りには戻れないわよ……」

「なぜそう思うの?」

「なぜって……」

 そこから先は言いたくなかった。ミササギはそのことも分かっていたのか、しばらく私が黙りこくっていると代わりにその軫憂を照らし出した。

「また同じことが起きるかもしれないって分かってるのね」

 彼女の身体が小さく震えた。描いた曲線はどこにもたどり着かず、道半ばで途絶えていた。


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