コルチカムの天使
猿烏帽子
第1話 「異変」(1/2)
―――12時55分。市街地、商業地区。
「はーぁ疲れたぁ。今日も面倒くさかったなぁ」
人々が行き交うモールストリートの中。一人の少女がいかにも気だるげに街を歩いていた。
今日は歩行者天国。いつにもまして人の多いこの状況が余計に彼女の神経を苛立たせているようだった。
「なんでこんなに人いるのかなぁ、今日」
グチグチとぼやきながら彼女は掛けているショルダーバッグを漁る。雑多に詰め込まれたバッグの中から出てきたのはひと束のレジュメ。それを少し確認したあとに、彼女は目前にカフェがあることに気がついた。しかも店内の一番奥、人が誰も来なさそうな薄暗がりがある。喧騒が鬱陶しくて仕方がない今の彼女にとっては何よりもありがたい場所だった。
―――12時57分。同所。
少年・Yは、隣に座っている母親に自らの所感を素直に伝えた。
「お母さん、なんか変な音しない?」
母親はため息でそれに答える。
「はぁ、今度は何?UFOでも飛んでるのかしら?今忙しいから後でね」
少年・Yは、隣で忙しく泣き喚く妹をあやしている母親に等身大の気持ちを伝えた。
「お母さん、空がなんかおかしいよ?」
母親は再び、今度はさっきよりも大きなため息と共に、少年の青い瞳のように晴れ渡る空の方へと目を向けた。
―――12時59分。カフェの隅の薄暗がり。
無事に人混みから逃げ出した少女は、先程取り出したレジュメの束をテーブルの上に広げた。
クローバー、ダリスグラス、クラブグラス、ゴールデンロッド、プランテイン、ハルジオン、オクサリス、ベッチ。
そこに書かれていたのはある大学の一角の植生一覧。いわゆるコドラート法で見つかったもの達。他にも大学数箇所での植生も書き留めてある。彼女はいつからか、植物を好むようになった。それで人生あれやこれやでいつの間にか、自然保護だったり植生調査だったりを請負う植物生態学者になっていた。
彼女はバッグから今度はイヤホンを取り出した。スマートフォンに表示されたお気に入りのプレイリストをタップしてイヤホンを耳につける。ノートパソコンに向き合い、表計算ソフトウェアを立ち上げる。彼女の集中が音楽とそれに裏打ちされたデータベース処理の間際のことだった。
「なんか、外うるさくない?」
店の外に目を見やると、多くの人々がその足を止めて空を指差したり、スマートフォンでしきりに何かを撮っている。
耳につけたイヤホンを外すと、にわかに声が飛び込んできた。
「空が、空が割れてるぞ!」
13時00分。同所、上空約700メートル地点。
人々の指差すそのさきは、確かにひび割れていた。まるでガラスをハンマーで叩き割ったような光景が空に浮かんでいる。その亀裂は鉄を五、六回無理やり折りたたんだような音を立てながら、徐々に広がっていく。これを見た誰もが口を揃えてこう言った。「あぁ、世界の終わりのようだ」と。
混乱は人々の間で確かな恐怖とともに押し寄せた。誰もがあの亀裂から逃げようと、モールストリートを走り出す。
小さな子供を抱えた母親が、食い入るように空を見つめる少年の腕を引っ張り、無理やり走らせる。嗚呼、これこそが阿鼻叫喚。誰しもが己の生存を最優先させるような非常事態。
そんな中、モールストリートの一角のカフェから猫背の少女が表へとやってきた。少女は何やらしゃがみ込んで、入念に靴紐を結び始めた。通りがかった親切なおじさんが、少女に声を掛ける。
「おい、そんな流暢なことしてる場合じゃないぞ、お前も早く逃げろ!」
それを聞いた少女はびっくりした顔をおじさんに見せた、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「確かに。じゃあ急ぐね、おじさん」
一瞬、猛烈な風が吹いたと思えば、少女の姿は消えていた。残っていたのは直径40センチ程が抉れたコンクリートの地面だけだった。
彼女にとってはなんてことはない。彼女は当たり前のようにモールの屋根を踏み台にして、空へと飛び出した。
今もなお広がる亀裂の元にたどり着くと、彼女は七色に光るその右腕を振るう。
13時01分。同所、上空約700メートル地点。
存在していた亀裂は跡形もなく、消失していた。
地上で慌てふためいていた人々の一部が、再び空を指差す。
「何も無くなったぞ!?」
「おい、なにか落ちてくるぞ!」
その声が終わると同時に、一人の少女がコンクリートを凹ませながら着地した。誰しもが、その少女に釘付けになっていた。
少女の方はというと、やっぱりなんてことはないようで、ホコリを払って、これまたしゃがみ込んで靴紐を確認し始めた。
そんな様子を見て、ある一人の少年が青い瞳をまんまるに開いて、こう呟いた。
「お姉さん、すごい」
声に気づいた少女は気だるげに答える。
「そう、すごいでしょ」
「すごい、空飛んでた」
「そう、空飛べるの。足だって早いし、さっきみたいな不思議なことだって解決できる」
「お姉さん、なんでも出来るんだね」
少年がそういうと、少女は意地悪そうな笑みを浮かべながら立ち上がり、吐き捨てるようにこう言った。
「そりゃそうよ。私はなんだって出来る。なんてったって、神と天使の捨て子だからね」
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