第41話 「胸を貫く痛み」

「ごめんなさい」

 その一言だけを残して、彼女は男と共に去ろうとした。

今では擦り切れたフィルムのように断片的にしか思い出せない会話が頭に鳴り響く。

「フロワ、ちょっと待ってよ! 突然現れたこいつの言葉を鵜呑みにするのは危険よ!」

 仮面の男の元へと歩いていこうとするフロワの腕を掴む。彼女は何も答えなかった。

「おいおいおい、邪魔すんなよぉ」

「あんたは黙ってて」

 トリムは彼女と顔を合わせようとしたが、彼女の方はそうしない。何か遠くの者見つめるような視線で、男の方を見つめていた。

「フロワ、落ち着いて。状況をよく見て」

「来なかったらお父さん、死んじまうかもなぁ」

 その一言が彼女の身体を強く揺さぶった。

「フロワ!」

「トリム、行かせてください」

「でも……」

「もし俺が選べたのなら良かったんだけどなぁ。お父さんを殺すか、生かすかを決めるのは俺じゃないんだわぁ」

 男は心底残念そうにそう言った。不思議と、その言葉には嘘偽りのない感情が込められていたようにトリムは感じていた。

「トリム、ごめんなさい」

 引き剥がされた手の鈍い痛みが、いつの日かの昼下がりを想起させる。あの時自分を連れて行った細腕の彼女は今、過去を追いかけようとしていた。

「私は、あの日追いかけなかったことを後悔しているのです」

 告解は静かに林床に降り注ぎ、踏み出した一歩が落ち葉を鳴らす。雲間に落ちかけた陽が彼女の姿を明瞭に照らし出していた。

その背中を追うことは、トリムには出来なかった。親を追い求めていたのは彼女だけではなかった。だが目的は悲しいほどに対極をなし、決して交える事のない道だということをその時彼女は理解した。


「よぉし、よぉし」

 仮面の男は歩いてきたフロワの肩に手を回すと、親しい友人に話しかけるようにして、

「じゃあ、アイツ殺しちゃって」

フロワの胸元に小さな剣を突き立てた。

 一瞬の痛みに小さな声を漏らした彼女の身体は痙攣し始め、突き立てられた剣は溶け込むように彼女の身体の内部へと沈んでいく。

剣を飲み込んだ彼女の身体は崩折れて地面に倒れ伏した。

「貴様……!」

 仮面の男への距離を詰める。磁性強化ほどの瞬発力はないが、その距離なら充分に男の身体を刺せる距離のはずだった。

だが、突き立てた剣はフロワによって止められていた。

それから、彼女は何も言わず、どこを見ているのか分からないような目つきでトリムの事を攻撃し始めた。その後ろで笑っている男と殺意を持って繰り出されるナイフの閃きを見れば、彼女が操られているのは明白だった。


そう。それで。

それで最終的に馬乗りになって私を地面に倒れさせた彼女が突きつけた銃口の冷たさを感じた次の瞬間、私は意識を失った。

そして、意識を取り戻した瞬間に眼にしたのは、自分の手に握られた短剣と、それに貫かれた彼女の姿だった。

「あ、あぁ―――」

何も聞こえない。

熱を感じる喉はその実、自分の叫びによって傷つけられていて、彼女を貫いた剣を握った手は固く握り締められている。

眼の前に横たわる彼女の顔を見下ろす自分がいて、その傍らに面白くなさそうな顔をしながらその場から立ち去ろうとする男がいた。

あまりにも唐突すぎた。選択の余地などなく、トリムが求めた相互理解はその身を蝕む誓約によって打ち砕かれた。

何を間違えたのか。

父親のためにカエノメレスの元へと去っていくフロワを止めようとしたから?

天使のいなくなった廃墟から立ち去る時にあの道を選んだから?

それよりももっと前。アルメンによって施された呪いのせいか。

怒りが瞼を焼き、流れる涙は横たわるフロワの胸から流れ出る血を、彼女の生命の熱を奪っていく。

聴覚が戻ってくることはなく、流れ込む現実は白く塗りつぶされていった。

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