第40話 「結末」

「お前の夢を描きなさい」

 そう言われた私は、幼い自分には不相応な立派なキャンパスの前、空き箱の上に背伸びしてその拙い筆で空白を彩った。

決して恵まれてはいなかったけれど、それでも見えるものの多くが輝いて見えた。

土に触れた時に感じた若干の湿り気と手に纏わりつく心地よい生命の冷たさ。水をたっぷり飲み込んだ土の上を歩いて振り返る、等身大の足跡。

「こらこら、汚れちゃうだろう?」

 そう言って脇の下から抱え上げられた時に感じた手の固さと、くすぐられるような感覚。

空を舞うように見渡した世界には豊かさこそなかったけれど笑顔の絶えない、晴天の空だった。

そんな空と同じくらいの青さを無心に貼り付ける私の筆が描いていたのは決して夢などではなかった。

夢。私にとってあの光景は夢ではなく、大切な現実。家族とともに過ごした何にも代えがたい確かな時間だった。だから、お父さんは苦笑いを浮かべながら「好きなことを書いてもいいのに」そう呟いていた。

そんな言葉に若干むくれ面をしながらも私は絵を書き進めた。

何十分、何時間という時間が過ぎ去っていた。

日の射していた窓辺には星空の冷たさが寄る辺なき寂しさを齎して、絵筆を浸す水桶は少なくなっていくキャンパスの空白に比例するように濁っていく。

やがて煌々と月が父の頬を照らす頃。私はようやく、その絵を書き終えた。

始め父が寝ていることに気がつかなかった私は大きく息を吸い込んで父を呼ぼうとしたが、振り返った時に見た父の寝顔があまりにも悲しそうな表情を浮かべていたものだから、吸い込んだ息はあてどなく身体中を彷徨って、冷えた指先を温めた。

このままここで寝かせるか、起こして寝室へ向かわせるか。私は少しの間迷った後、経年劣化でほとんど動かなくなったルーバーの立てる異音に紛れてその部屋を出た。

それから、布団を引きずってきた私はキャンパスを部屋の隅に寄せるとソファで横になっている父に毛布をかけたあと、布団に横になった。

翌日私が目を覚ますと、キャンパスは片付けられ、壁には誇らしげに掲げられた私の書いた絵が飾ってあった。

「よく書けてるな」

 そう言って朝日を背に振り返る父は眩しい笑顔を私に差し向けるのであった。

そんなことが繰り返されて部屋の壁一面が私の絵で埋まった時、父はこの家を去った。

曇天の空の下、ただ一言「すまない」とだけ残して。

 私は父親を殺したいとは思わなかった。

ただ、何故そうしたのか理由を聞きたかった。

最後にその話を聞けたのだから、正直思い残すことはないかな、なんて思ってしまっている自分がいた。

私の熱が雨とともに流れてゆく。

経緯はどうであろうと、あなたは私の為に泣いてくれた。それも、嬉しかったことの一つだ。

―――だから、もうこの瞼を閉じても良い。

火照った身体と疼く傷の感覚が消えていく。 雨と同化するように、私の意識もまた私の頬を伝って流れていった。


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