第22話 「文字の牢獄」

 その手帳は少しでも乱雑に扱えばボロボロと崩れてしまいそうなほど年季が入っていた。

 恐らく、この入れ物となっていた本が湿気などを肩代わりしてくれていたのだろう。それがなければ、ただの紙屑と化していたかもしれないほど、古めかしい代物だった。

 フロワは恐る恐る、その手帳を取り出してみた。

 思ったよりも厚い手帳は、病に伏していた身体をどうにか起き上がらせたのように、弱々しいものだった。

 彼女はリビングのテーブルにそれを置いて、丁寧に表紙を捲った。

「なんだ、これは……」

 現れた頁には、見たことのない文字が散らされていた。およそ、人が書いた文章とは言えず、単語にすら成りえなかった一文字一文字が、所狭しと配置されていた。

 彼女はその文字たちを隣接する文字を並べて書き出してみたり、斜め、あるいは横に連なっている文字を抽出して見たものの、何か意味のあるようには見えなかった。

「そもそも文字が分からないからこんな事しても意味ないか……」

 諦めた彼女が次の頁を見ると、今度は最初とは異なり、輪を描くように文字が配列されており、その何十にも重なった文字のアーチが頁と頁の間にかかっていた。

 彼女は次々と頁を捲っていった。そこには四角形に配置された文字や、頂点から溶け落ちた三角形、空を埋め尽くすような文字、大地を満たす文字、様々なものが次々とその姿を現した。それはまさに、「文字で描いた」とでも形容すべきものだった。

 それは頁が進んでいけば行くほど、より巧妙な絵画の体をなしていった。

 最初に彼女が目にしたのは幼子がおもちゃ箱ひっくり返しかのような乱雑さ、意図の無さだった。それは作ったとは言えず、ただ偶然にそこに転がっていただけだったものが、筆の握り方を教わったかのように、線を成し、物を知ったかのように輪郭が生まれ、色を見つけたかのように

濃淡までもが生まれた。

 それはある世界の光が、音が、熱が、生命が、あらゆるすべての物が文字となって、この手帳に閉じ込められているかのようだった。


 彼女がその手帳の最後に目にしたのは、頁の中央の二つの文字の密集して出来た円を取り囲むように、歪な形の、触腕のように伸びる文字だった。

「これは……」

 彼女はその中央の円形の物体のシルエットに既視感を覚えた。中央の玉のようなシルエットに絡みつくようなデザイン、これは彼女のネックレスではないのか―――

 フロワは息を呑んだ。

 そもそも、この頁の構図自体が、そのネックレスのデザインと似通っている部分があった。

”それ、子供の頃にもらったの。育ての親からね”

 彼女は確か、そう言っていた。

「育ての親……」

 この二つが類似しているのは全くの偶然だと考えられる。だが、もしそうでないとしたら。

彼女の「育ての親」は、一体どこでそのネックレスを手に入れたのだろうか。

本人にそれを尋ねても良いものか、少し迷ったが、フロワはその手帳について彼女に話すことにした。だが、それは彼女が目を覚ましてからの話ではあるが。


手帳を閉じ、彼女は大きく腕を上げ、背伸びをする。さすがに長時間本を読み続けるというのは堪える。

彼女はその手帳が入れてあった本をしまおうとしたところで、それがすべての頁が刳り貫かれているではないことに気がついた。

積み重なった頁の空洞から覗いていたのは、槍を携えた天使と、それに対抗する天使の姿。

その右端の方には球体を持った天使の姿が描かれていた。

刳り貫かれたことにより出来た、意味を成さない文字の数々がまるで額縁のようになっている。

その額に収められていた絵を取り出すように頁を捲ると、その全体図が見えてきた。

それぞれ別の絵と思っていたそれは、実は一つの世界に収められており、そこに描き出されていたのは空へ聳え立つ大樹の姿と、その周りで争っている天使たちや、樹の根元の部分に寝そべり、どこか艶やかな表情を見せながらそれを見つめている子供のような見た目の天使、大樹に実る果実を手にしている天使など、実に様々な天使が描かれていた。

そしてその足元。深く地中に根を張るように、また地下にも同じように大きな大樹が描かれていたのである。

それはまるで、地上の大樹の根が地下の大樹であり、その逆もまた然りといったような描かれ方をしており、それらを囲むように大きな輪が描かれている。

地下の大樹にも果実は実っているが描かれている天使の数はさほど多くはない。

それらはどこか虚ろな表情を浮かべながら、大樹に身を寄せていた。

そしてその絵の描かれている頁の隅には、小さく後から書き足されたであろう「アーカンサス」というサインが認められていた。

インクは既に乾ききり、一部が掠れているのもあってそれなりの月日が経っている。恐らく、この本が刳り貫かれたのと同時期だろう。

描かれている絵自体はとても旧いものらしく、これはもともと洞窟の壁画だったものの一つを本に納めたものであるとの注釈が、どうにか切り取られずに生き残っていた。

なぜ、わざわざサインをするような真似をしたのだろうか。

今の彼女に考えられるものとしては、誰かへのメッセージであることくらいだった。

これらの本はすべてアルメンが所構わず、手段も種類も問わずに蒐集したものだ。彼女自身、最初は読んでいたそうだが、最終的には集めることが目的になっていたという辺り、本人もどういった本が書庫に収められているのか知らなかったのかもしれない。

事実、彼女は時折書庫へ消えると、机に向かい本を読んでいることがあった。

そして自分でも知らなかったものを知ると「こんなものがあったとはな」と苦笑しながらその本を読み進めるのであった。

その事を鑑みると、彼女の書庫をすべて読み改めることで意外な成果が挙がるかもしれないが、それには気の遠くなるほどの時間がかかりそうなことを、フロワは知っていた。

「とりあえず、マスターにこのことを伝えてみよう」

 立ち上がろうとして、彼女は足をふらつかせた。足が痺れたようで、独特のこそばゆい感覚が足先から這い上がってくる。

彼女は一人、足を動かさないように苦心しながらも、つい動いてしまうことで来るその感覚に静かに悶えていた。

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