第30話 「振れる磁針」
「いってらっさい」
「はい」
踏み出した地面からは歩みを進めるほどに人の気配というものが消えていく。
ミュスティカイア。かつてはクレムティスやイヴェル・ヴィレンスとも同程度の市郡規模だった街。
荒れ果てる路面はその栄華の枯れ落ちたことを如実に表し、辺りを見回せばそこは既に人の手の及ばぬ自然の理に満ちている。
二時間ほど歩いた彼女たちを迎えたのはそんな世界だった。
「結構歩いてきたけど、街は見えてこない、か」
「相当時間が掛かりそうですね」
「一本道なのが唯一の救いってところか」
「そうですね、もし複雑に分かれていたら迷っていたかもしれませんし」
「迷うっていってもコンパス持ってるなら多分大丈夫だろうけど」
「いえ、それが……」
彼女が内ポケットから取り出したコンパスは道を見失ったかのように絶えずぐるぐると回り続けていた。
「なにこれ、壊れてない?」
「私はてっきり、またあなたがやったのかと思ったのですが」
「いや、磁性強化なんて使ってないし」
「えぇ。分かってます。つい先ごろから急にぐるぐると回り始めてしまって。どうやら狂ってしまったみたいなんです」
「コンパスが狂うのって、近くに強い磁力があった時くらいよね」
「そうですね。磁極逆転が起こりうるのは強い磁性体が磁針の近くを素早く移動した時ですが……」
先に彼女が言ったように、トリムの磁性弾や磁性キューブなどはその発射の折強い磁力を発しながら移動するため磁極逆転の原因として最有力候補だったのだが、本人はそれを使用していないし、フロワ自身もそれを見ていない。
実はこっそり使ってたりしてなんて思ったりもしたがそこまで言うとトリムが拗そうなので口にはしなかった。
「なんでだろうなぁ」
「まぁ、今回は必要なさそうですから、そこまで気にしなくても良いかもしれませんね。オーナーにも道を聞きましたし」
そう言いながらコンパスを仕舞おうとしたその時、磁針がピタリと九十度回転した角度で停止した。
「止まった……?」
「何、どうしたの」
「いえ、磁針の回転が止まったんです」
「治ったってこと?」
「いえ、最初に北の方角を示していたのとはまた少しずれています」
そう言い終えた瞬間に、再び磁針が回転を始め、先ほどとは真逆の方向が磁北だと指し示す。
先ほどまでの不規則に乱れ動くような様子ではなく、明確にその方向に磁性体が存在するかのような動き方だった。
磁針は留まることなく、次々に角度を変えていく。しばらく見ているとその動きにもある程度の規則があることが分かってきた。
三六〇度を寸分違わず四つに分けた九十度ごとに磁針は停止し、およそ二十分周期で磁針が一周する。彼女たちが森の奥へと歩みを進めてもなおその移動が止まることはなかった。
その様子を観察し続けていたフロワが隣を歩くトリムに言う。
「何なんでしょうね、これ」
「狂っているというよりは、確実に何かが周囲にあることを知らせているっぽいけど……」
「オーナー、こんなことは言ってませんでしたよね」
「えぇ。一言もね」
トリムが覗き込むようにコンパスを覗くと、彼女のいる方向を指し示していた磁針が逃げるようにしてきっかり九十度分移動する。
彼女は眉をひそめながらも、辺りを見回してみるが、樹林に視界が遮られて遠くまでは見渡せなかった。
ここに来るまでの道のりを思い返してみても、辺りに建造物などは見当たらず、次第に人が通っていたであろう道らしきものの辺りには木々が生い茂り、奥へ進むに連れてその樹高も高くなっていっていた。ここは所々木が折れたりしてギャップが出来ており、常緑高木のスダジイなどが植生していた。
植物群落の遷移の最終段階、組成や構造も変化しなくなる陰樹林になる一歩手前と言った様相だった。
ギャップが形成され、所々に陽が差し込む林床は、一直線上に植生の薄い部分が伸びており、それが未だに何者かがこの道とも呼べぬ道を通っていることを物語っている。
トリムは最初、その道を獣道かとも考えたが、一直線にすぎるし、そもそもシカやイノシシのいる気配がなかった。
僅かな林冠の隙間から差し込む陽光を、もっともっととせがむように伸びるヨモギは数こそ少ないもののキレイに草丈が揃っているし、倒されているところなども見当たらない。
木々の樹皮もイノシシによる傷があるわけでもなく、シカが引き剥がしたような痕も見られなかった。
ここまで整えられた植生があれば何かしらの動物の痕跡があってもいいものだが、何一つとして生命の痕跡がなかった。
彼女はゼクスタを神話の街たらしめたあの完璧な森を思い出した。
人の手によって決定づけられた自然の在り方。あらゆる生命が均一に育ち、互いを傷つけることのない妄言の森。
その虚構を形作っていたであろう天使は既にいない。贋作の人々とその街は森とともに焼け落ちた。だから、この森は本物だが、動物がいないだけの森だと彼女はある意味安心出来た。
動物の、動的な競争が見られずとも、ここには植物達の静かな闘争がある。葛の絡みついた木や陽の当たる場所を占領する緑。何よりも貪欲に背と枝を伸ばし続けたあの林冠こそがその闘争の何よりの証左であった。
そうであるのなら、フロワの手元で未だに規則的な動きを見せている磁針は何を示しているのだろうか。
自然現象ではない、人為的なものか。もしくは―――
「天使か」
しかし、だとしたら一体何が目的なのだろうか。
磁性体を操る天使だったとしても、その意図が掴めない。
「フロワ」
「はい?」
「あなた木登り出来る?」
「は、何ですか?」
「ちょっと木の上に登って辺りを見回してみるってのも一つの手じゃない?」
「百聞は一見に如かずって訳ですか。分かりました」
彼女は腰のホルスターから拳銃を取り出して、適当な樹上に弾丸を撃ち込んだ。
拳銃を仕舞い終わった時には彼女の姿はトリムの頭上、樹の頂点にあった。
「何か見えるー?」
フロワが下を見ると、辺り一帯緑に覆われていて、その中に佇むトリムはずいぶんと小さく見えた。
彼女が枝葉の一部を避けて周囲を見回すと、辺りは同じような背の高い木々に囲まれていた。
磁針が指している方向を見ても、人工物らしきものは何も見えず、視界の果てまで緑が続いているのみだった。
が、彼女たちの歩いていた道の行く方向には、木々に混じって自然に相応しくない、明瞭すぎる正方形の輪郭が木々の間から顔を覗かせていた。
「何か見えるー?」
下から声を上げるトリム。フロワは再び拳銃を取り出し、今度は彼女のいる地上に向けてマーカーをセットした。
「よいしょっと」
勢いをつけて掴まっていた手を離した彼女の身体が宙に浮く。そしてその直後にはトリムの傍らに着地していた。
「磁針の指し示していた方向には何も。ただ、この道を真っ直ぐ行った先に建造物らしきものが見えました。おそらくミュスティカイアかと」
「そっか。ありがと、お疲れ様」
「いえ」
結局、その後街へと歩き続けている時も、彼女たちが休憩している時も磁針は一定間隔で回り続けていた。
彼女たちが林縁に辿り着き、人の気配のない廃墟と化した街を発見したのはその磁針が六周ほど回った頃の話であった。
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